私たちの身の回りにある医薬品、食品、化学製品の多くは、特定の分子の構造によってその特性が決まってくる。しかし、これまで極微量の試料では分子構造を解析することが困難だった。こうした課題を解決するため、東京大学の「統合分子構造解析講座」では、企業とアカデミアが共同で最先端の分子構造解析技術の開発に取り組んでいる。現在、東京大学大学院 工学系研究科応用化学専攻の藤田誠教授が提唱した「結晶スポンジ法」を駆使し、ピコグラムレベルの試料から分子の形を特定することに挑戦している。この研究を主導しているのが、東京大学 社会連携講座「統合分子構造解析講座」 佐藤宗太特任教授である。また佐藤特任教授は、最先端の分子科学を化学の専門知識を持たない企業の経営陣や高校生に分かりやすく伝えるツールづくりにも取り組んでおり、2023年には化学コミュニケーション賞を受賞している。今回は、佐藤特任教授に本講座の目的や最新研究の取り組み、そして将来の展望について話を伺った。

「結晶スポンジ法」の難解なメカニズムを直観的に、分かりやすく解説
Q:研究概要について教えてください。
まず私が所属している「統合分子構造解析講座」について簡単に説明します。この研究室は極めてユニークな位置づけにあります。その最大の特長は、国立大学法人である東京大学に属しながら、企業からの100%出資により運営されている点にあります。これは産業界とアカデミアが連携した研究拠点であり、両者の知見と資産が融合した革新的な研究機関として機能しているからです。
その中で私たちが研究しているテーマは、シンプルにいえば「分子の形を調べる」研究です。「分子構造解析」といい、医薬品から食品、化学製品、生活用品にいたるまで、多岐にわたる産業で求められる重要な技術です。企業の製品開発において、分子構造を正確に把握することが品質管理や新製品の開発に有効です。それは、さまざまな製品が有機分子でできており、産業には必要不可欠な要素だからです。製薬業界では新薬開発において、特定の分子がどのような形をしているかが薬効に直接影響してきます。食品業界では分子構造の理解によって、その企業が求めている特定の味や香りを持つ製品開発が可能になります。
また、企業が特定の分子に関する特許を取得する際にも、正確な分子構造の決定が不可欠になってきます。香料メーカーが「特定の香り成分の独占販売権を確立するための特許取得には、その成分の分子構造を明確に示す必要があります。さらに品質管理面では、「意図しない臭い」などが発生した場合、原因となる不純物の分子構造を特定することで、製造工程の迅速な改善が可能になります。
私たちの講座では、有機分子の構造を解明するために「三種の神器」と呼ばれる解析技術(設備)を活用しています。一つ目は、分子がどのような特徴的な部分構造を有しているかを解析するNMR(Nuclear Magnetic Resonance:核磁気共鳴分光)という機器です。二つ目はMS(Mass Spectrometry:質量分析)です。分子の質量を測定し、構成元素や分子量を特定することができます。3つ目はXRD(X-ray Diffraction:X線回折)で、単結晶試料を用いて分子の三次元構造を詳細に分析することができます。この三つの先端機器は、日本電子、島津製作所、リガクという日本を代表する分析装置メーカーから提供されています。国内でこの3つの設備を活用して、三社とともに研究できるのは当講座のみであり、極めて希少価値の高い研究拠点になっています。
さらに、この「統合分子構造解析講座」は、競合関係にある企業の研究員たちが密に連携して、共同研究を進められる貴重な場としても機能しています。現在、14社の企業が参画し、活発な意見交換や共同研究を通じて、革新的な技術開発に取り組んでいます。通常、競合企業間でこうした連携を実現することは容易ではありません。しかし、私たちアカデミアが仲介役となり、共通の研究テーマなどを提案し、呼びかけることで、企業間の壁を越えた連携が生まれやすくなります。この講座では「非競争領域」、つまり企業間で共有可能な基礎研究に焦点を当て、分子構造解析技術の向上を目指しています。
例えば、先ほど紹介した「三種の神器」と称される分析装置を製造する島津製作所、日本電子、リガクもこの講座に参画しており、各社の専門技術を結集することで、より高精度な解析手法の開発が可能になっています。なお、この講座に集まっているのは、東京大学の藤田誠教授が2003年に発表した「結晶スポンジ法」の可能性に着目し、その発展に寄与したいという思いをもってくださっている企業ばかりです。
私の専門の「超分子化学」は、分子同士の弱い相互作用を利用して、新たな特性や機能を持つ分子構造体を形成する研究です。「結晶スポンジ」はその1つであり、水分子が水素結合を介してつながれて氷になるように、分子同士の微弱な力で特定の構造を形成します。この超分子化学の原理を応用して生まれたのが、革新的な「結晶スポンジ法」です。この手法では、分析対象となる分子が結晶内部のナノスケールの空間に取り込まれ、分子間の相互作用によって安定した配置をとることで、X線回折測定が可能になります。これにより、従来は、結晶化しないために分析が困難だった微量の化合物でも、高精度の分子構造解析を実現できるようになりました。
しかし、この結晶スポンジ法のメカニズムは非常に複雑で、図解しても理解してもらうことが難しいと言われています。その一方で、この研究は企業活動や事業に直結してくるため、共同研究を円滑に進めるためには、化学の専門知識のない企業の経営陣へも理解を促す必要があります。そこで私たちは、「結晶すぽんじさん」というキャラクターをプロのデザイナーと組んで創作し、複雑なメカニズムがビジュアルで理解できるように工夫しました。
現在ではこのキャラクターは企業経営者だけでなく、将来の科学者となる可能性を秘めた高校生などにも、受験のための化学ではなく、最先端の化学の魅力を伝えるツールとして活用しています。この難解な概念を伝えるには説明技術も必要になってきます。ただ、話だけでは伝わりにくいため、キャラクターグッズを使いながら、楽しく学べるように工夫を凝らしています。
Q: 「結晶すぽんじさん」以外に、最先端の化学の理解を高校生や一般の人に促すために、どのようなツールを活用しているのでしょうか?
教育の一環としてVR(仮想現実)を活用した分子科学の可視化プロジェクトに取り組んでいます。元々は、「誰も思いついたこともない新しいことにチャレンジする」というミッションを掲げ、スタートしました。そして豊田中央研究所と共同開発した「VR-MD(Virtual Reality – Molecular Dynamics)」が誕生。これは、分子の動きをリアルタイムで可視化し、教育や研究支援に活用できる画期的なアプリケーションです。豊田中央研究所の持つシミュレーション技術と、われわれの東京大学の分子科学と化学教育の知見を融合してうまれたツールになります。
従来の分子構造解析では、分子の動きを数学的なモデルや静的な3D構造で捉えていましたが、VR-MDを使うことで、分子がどのように振動し、相互作用するのかを実際に「手で触れながら」学ぶことが可能になりました。実際、スマートフォンとVRゴーグルを使用する「スマホVR」方式を採用しており、分子を立体視でき、インタラクティブな要素もあるので、分子レベルでの動態を直観的に理解できる新しい教育ツールにもなっています。この技術は、単なる教育用途にとどまらず、研究支援ツールとしての可能性も秘めています。例えば、新規材料の分子設計において、分子の結合や構造変化をリアルタイムでシミュレーションすることで、その振る舞いを観察し、効果的な分子設計が可能になります。
現在、VR-MDはおもに高校生向けの教育イベントに導入されており、理系の学生が分子科学に興味を持つきっかけを提供しています。特に、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)プログラムなどの教育機関での利用が進んでおり、このツールによって高校生でも分子の動きを直感的に理解できる仕組みが整えられつつあります。SSHプログラムとは、文部科学省が2022年に開始した先進的な科学技術や理数系教育の充実を目的とした取り組みです。指定された高等学校(SSH指定校)は、通常のカリキュラムに加えて、科学技術や数学に関する高度な学習や研究活動も行えます。われわれもこの(SSH)プログラムの一環で、全国の高校への出張授業を行っています。
Q: 話は少し変わりますが、企業との共同研究における独自性について教えてください。
大きくは2つあります。1つ目は藤田先生が開発した「結晶スポンジ法」を導入していることです。従来の技術では解析が難しかった分子構造を明らかにできます。特筆すべきは、ナノグラム単位の極めて微量の化合物でも分子の形を特定できる点です。
2つ目は、最先端の実験機器の利用環境が備わっているということです。研究室に設置されているNMR, MS, XRDに加えて、放射光X線を線源とするSPring-8やKEK、XFELを線源とするSACLA、透過型電子顕微鏡による電子回折など、世界トップレベルの装置を組み合わせることで、超極小の結晶から分子の形を測定できることです。これらの装置へのシームレスなアクセスが1拠点に揃った研究環境は世界にも稀少で、私たちはこれらを駆使した独創的な研究に挑戦し続けています。まさに科学の最前線で、日々試行錯誤を重ねている状況です。
結晶スポンジ法の革新性は、必要なサンプル量の少なさにあります。この手法では、結晶に分子を染み込ませて構造を決定するため、2003年の発表当初でも、量としては数マイクログラム程度という微量なサンプルで分析が可能でした。一般的なNMR分析ではサブミリグラム以上は必要になってきますが、それに比べても格段に少ない量ですみます。さらに、私たちが導入している放射光X線などの先端装置を使えば、ナノグラム単位のサンプル量でも測定できることがわかってきました。これは、従来の1000分の1のサイズになるので、圧倒的な進歩と言えるでしょう。
ナノグラム単位の極微量の試料で、分子構造分析ができる技術を確立する
Q: この研究における課題は何でしょうか?
研究における最大の課題は、極微量の試料をどのように分子構造の分析に活用するのか、その技術の確立です。結晶スポンジ法を活用することで、これまで困難だった微量試料の分子構造解析が可能になってきていますが、その実現には超高精度な試料の取り扱いが求められます。
特に、1マイクロメートルレベルの微小結晶をどのように安定的に扱うかが重要な課題となってきます。結晶は非常に小さく、物理的な操作に敏感で、試料の固定や移動を誤ると容易に破損してしまいます。また、使用する試料量はナノグラムレベルにまで少量にするため、取り扱いの難易度が飛躍的に上昇します。試料が少なければ少ないほど、誤って紛失したり、他の物質と混ざってしまうリスクが高まるのです。
従来のマイクログラム単位の試料ではピペットを用いた操作が可能ですが、ナノグラムレベルの試料を正確に取り扱うための技術は未確立です。現状では、モデル試料を用いてナノグラムレベルの取り扱いを模索している段階ですが、最終的には希少の試料を扱う必要があり、その際は精密な操作手法を確立しなければなりません。この課題の克服には、単なる技術開発だけでなく、試行錯誤を重ねながら最適な手法を見出すプロセスが不可欠であり、実験環境の整備や新しいオペレーション技術の開発など工夫が求められます。
また、この分野は実在する物質をリアルに取り扱う化学領域なため、研究者の経験と技能が大きく影響します。精密な技術と熟練した手作業が必要です。そのため、実験技術の研鑽を積み重ねることも、本研究の重要な課題の一つになってきます。
このように、極微量試料の取り扱いとそのための技術開発は、本研究の進展を左右する最も重要な要素であり、今後のこの研究が産業化につながる大きな鍵となるでしょう。
Q: この研究を目指す学生に伝えたいことはありますか?
高校生と話をすると、私たちの研究は目の前の実験に没頭するあまり、閉じた人間関係の中で行われているというイメージを持たれています。しかし実際は、そのイメージとは大きく異なります。むしろ、私たちは異なる分野の研究者、民間企業、官公庁など、多様な組織や立場の人たちと積極的に交流しながら研究を進めています。こうした多様なつながりがあるほうが、新たな視点をもたらし、従来では生まれなかった革新的なアイデア—例えばVR-MDの開発のような—を実現させるのです。
私自身も修士生の頃、研究室内だけでは解決できない課題に直面し、自作の名刺を持って、面識のなかった企業や他大学の先生方に積極的にアプローチしました。みなさん多忙な方々でしたが、こちらが誠実にお願いすれば必ず話を聞いてくださり、相談に応じてくれました。苦労したのは専門外の内容を理解することだけでした。
「なんとしても理解する」という強い意志を持って、わからないことは何度も質問して確認することで、研究者の方々は数時間〜半日もの貴重な時間を割いてくださいます。学生時代、学科内には機能や扱うサンプルが異なるNMR装置が7〜8台ありましたが、さまざまな研究者や先生を訪ね歩いて設備の使い方を学んでいたので、おそらく全ての装置を使った経験があるのは私だけだったと思います。
これから、この研究分野を目指そうという人は、異質な考えを持つ人々の中に積極的に飛び込み、分野を超えた研究や新たな開発に挑戦してほしいと思います。
Q: 今後の展望を教えてください。
先ほども説明したように、私たちは、極少量の試料から分子構造を解明する技術開発に挑戦しています。現在のナノグラム(ng)レベルからさらに一歩進めて、ピコグラム(pg)、そして将来的にはサブピコグラム(数百フェムトグラム(fg))という、ほとんど想像できないほどの微量サンプルでの分析を目指しています。
質量分析という最も高感度な技術では、ピコグラムやフェムトグラムの試料でも測定可能です。しかし、分子の立体構造(3D構造)まではまだ把握できません。そのため多くの研究者は、このような微量試料での立体構造分析は「不可能」と考え、諦めているのが現状です。
私たちが描く未来は「知りたくてもわからない」から「知りたいならわかる」へ の転換です。どんな微量の試料でも分子の立体構造を明らかにできる技術を実現し、科学の新たな地平を切り拓いていきたいと考えています。ナノグラムレベルでの成果を着実に積み上げながら、次のステップであるピコグラムへと進むロードマップを描いています。その先にはサブピコグラム領域への構造分析への挑戦が待っています。道のりはまだ見えませんが、企業の研究者のみなさんと共に試行錯誤を重ね、この困難な課題に取り組んでいきます。(了)

佐藤 宗太
(さとう・そうた)
東京大学 大学院 工学系研究応用化学専攻
社会連携講座「統合分子構造解析講座」 特任教授
2000年 東京大学理学部卒業。2005年 東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)取得。2005年 東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻助手。2007年 同専攻助教。2010年 同専攻講師。2012年〜2017年 理化学研究所客員研究員(併任)。2013年 東北大学 原子分子材料科学高等研究機構 (AIMR)准教授。2013年〜2019年 ERATO磯部縮退π集積プロジェクトグループリーダー・研究総括補佐(併任)。2017年 東京大学大学院 理学系研究科化学専攻 特任准教授。2020年より現職。2020年 早稲田大学グローバル科学知融合研究所・招聘研究員(併任)。2023年 自然科学研究機構分子科学研究所 客員教授(併任)。