嗅覚は五感のなかでも研究がすすんでおらず、手付かずの未解明の問題がまだまだ残されている。嗅神経系の成り立ちと機能の理解を目指し、遺伝子レベルから個体レベルまでの化学感覚研究を広く行なっているのが、東京工業大学生命理工学院の廣田 順二 准教授。長大なゲノムDNAを安定に操作するための技術開発とその応用研究というゲノム工学技術領域にも携わる廣田 准教授に嗅覚研究について話を伺った。
未知の世界が広がる嗅覚分野
Q:まずは、研究のニーズについて教えてください。
嗅覚というと、日頃我々が忘れてしまうような存在かもしれません。しかし遺伝子から見てみると、その重要性が見えてきます。
まずヒトやマウスは遺伝子の数が約2万数千個と言われています。そのうち、匂いを感知する受容体遺伝子の数はヒトだと400個ぐらいだと言われていますので、2万個のうちの400個つまり2パーセントほど。そう考えると、我々の持っている遺伝子の50個に1個が鼻に使われていることになりますから、これはちょっと驚きの事実だと思います。つまり、我々は遺伝子の数として、嗅覚に非常に多くの投資をしていることになります。
一方で、マウスの場合は20個に1個ほど、つまりマウス全遺伝子の5%にもなります。ヒトと違って多くの動物にとって嗅覚は「個体の生存」あるいは「種の保存」につながるものです。嗅覚は自分が生き残って種を保存するため、非常に多くの遺伝子の投資をして保持するほど重要な機能であると言えます。
それほど重要な部分であるということは、嗅覚はまだ我々が知らない機能を持ち合わせているかもしれません。
例えば、嗅覚の受容体はほとんどが「オーファン受容体」(みなしご遺伝子)と言われるものですが、匂い物質との相関関係については未だにわからないことが多くあります。つまり、本当の意味での匂いの生理効果や機能には、まだまだ我々が気付かない点も多くあるのではないかなと思います。
私がこの世界に入って一番面白いと思ったのは、アメリカのモネル化学感覚研究所というケミカルセンス(化学感覚)に特化した研究所で研究を続けられてこられた山崎邦生先生の研究です。その研究は、マウスが自身とは異なる系統、つまり遺伝子が異なる異性のマウスを好む傾向にあることを実験的に証明したものなのですが、その遺伝子の違いは、実は匂いの違いとして嗅ぎ分けることができると報告されたことです。その後の研究から、ヒトの相性も匂いで決まること、そしてその匂いを表しているのは遺伝子だとわかってきました。
その遺伝子は、人間ならHLA(ヒト白血球抗原)、マウスならMHCと言われる「主要組織適合性遺伝子」のことを指します。これは拒絶反応に関係するもので、例えば臓器移植をした時にその遺伝子の型が一致していれば、拒絶反応を起こすことはありません。
しかし型が違うと、拒絶反応が起きてしまう。つまり免疫系の重要な分子の型によって、人の好みも規定されるというわけです。
人間も動物ですから、より良い自分の子孫を残すためには遺伝子レベルでの多様性を確保するのが根元だろうということです。
例えば、別のグループの実験の話になりますが、男性に数日間同じTシャツを着せてその匂いを被験者の女性に嗅がせます。すると、その女性が持っているHLAの型から遠い男性を好む傾向にあるということがわかりました。
これは、まず我々が普段気付かない、意識しないことだと思います。現代では体臭を気にされる人が多い傾向にあると思いますが、根本的に気づかないような意識の外で人間がそういった感覚を持っていたら、非常に面白いと思います。
このように、まだまだ未知の世界が広がっているのが嗅覚の分野だと考えています。また、現代のようなストレス社会において、ストレスを緩和する匂いというものもあるかもしれません。
そう考えると、我々が意識していないものの生理効果をもたらす匂い分子というものも、今後はたくさん見つかってくるのではないかなと思います。その意味では、広がりのある分野だと言えるでしょう。
Q:研究の進め方はどうなっていますか。
我々の研究室では、匂いを感じるためにたくさんの遺伝子をどのように使っているのかに興味を持って研究をしています。
例えば一つの神経細胞が匂いを感知するわけですが、その細胞には1000個分の匂いの受容体遺伝子のレパートリーが揃っています。
ただ、その神経細胞は特定の一個しか発現することができません。隣の細胞は、また違った匂いの受容体を出しています。それによって、神経細胞レベルで1000種類の多様性が出てきます。その多様性をもって、複雑な臭いを検知しているのだろうということが提唱されるわけです。
遺伝子の発現のメカニズムは、受容体が発見されてからもよくわかっていなかったところがありました。私がちょうどアメリカに留学した時に、遺伝子の発現について掘り下げる研究を始めたことがきっかけになります。
マウスのゲノム上には1000個もの遺伝子が存在しているのに、どうやってその一個だけを選ぶのか、なぜ二個ではいけないのか。
嗅覚の根本とも言えることですが、匂いを感知する神経細胞は、それぞれ脳の決まったところに神経軸索というものを投射して、神経回路を形成します。神経回路を形成する場所は、発現する受容体によって決められるものですから、神経細胞が同時に複数の受容体を発現してしまうと、脳のどこに投射すれば良いかがわからなくなり、正常な神経回路を形成できなくなってしまいます。
それができないと神経細胞は死んでしまいますから、一つの神経細胞が一つの受容体遺伝子を発現することは非常に重要なステップだと言えます。それにもかかわらずよくわかっていなかったということで、アメリカにいるときに研究を始めたのがきっかけになります。
まずやったことは、転写因子の研究でした。
遺伝子のON・OFFには転写因子と言われる、DNAに結合をして、遺伝子の発現を活性化したり、また別のものは抑制するスイッチのようなものがあります。転写因子についての研究をアメリカで行ない、世界で初めて嗅覚の受容体の遺伝子発現を制御する転写因子を同定しました。
その転写因子をノックアウトして遺伝子を潰してしまうと、匂いの受容体はほとんど発現しなくなってしまいます。
逆に、このノックアウトマウスでわずかに発現する匂いの受容体だけをみてみると、今度は不思議なことがわかってきました。匂いの受容体はその遺伝子の配列(アミノ酸配列)を見てあげると、1000個が二つのグループに大きく分かれています。1000個(正確にはマウスの1100個)が150個と950個に分かれる。この150個の方は、魚類や両生類で見つかった匂い受容体に近いものです。
匂いの受容体は、その動物種の生活環境に適応するように進化していきます。それぞれのグループで独自のものを持っているのですが、一部の受容体遺伝子で魚類などの水生動物から陸生動物までずっと引き継がれているような保存性の高いものもあります。なぜか我々が同定した転写因子を壊しても、このグループに属する遺伝子はちょっと発現してしまう。ということは、何か別の仕組みがあるのだろうと分かってきたのです。進化的にそういう特徴を持ってきたものなのかなということがわかって。ちょうどその時にアメリカから日本に戻って研究室を持たせてもらえることになって、何をしようかなと考えていました。
ヒトやマウスでも見つかったマイナーな匂いの受容体は、魚類(水生型)で発見された受容体に近かったことから、当然みんな進化の名残だろって思うわけです。それでも、広く哺乳動物に保存されているのは、何らかの未知の生理機能があるのではないかということで、二つの大きなテーマを立てました。
一つは水生型と言われるタイプの受容体の遺伝子の発現がどうなっているのかというテーマ。
もう一つは、どうやってその神経細胞ができる時に、クラス1(150個の水生型)とクラス2(950個の陸生型)という運命を選んでいるのかというテーマ。
我々は水の中から進化して陸に上がってきました。ということは、最初はクラス1に分類されるものがあって、どこかの地点でそこにクラス2が大きくドカンと出てきた。そのクラス選択は、動物の陸生化にも関連しているのではないかと。そのスイッチングのメカニズムと二者択一的な選択はどうなっているのかという、二つの課題をやろうと取り組み始めたのがここに至る経緯になり、最近10年以上の歳月をかけて、ようやくこれら2つの課題を解決することができました。
遺伝子発現のメカニズムをさらに解明する
Q:今後の課題としてどんなことがありますか。
このクラス1(水生型)の匂いの受容体は、とても長大な遺伝子クラスター(遺伝子が連続的に並んだ領域)を形成しておいます。この長大な遺伝子断片を操作するために、枯草菌(納豆菌は枯草菌の一種)のゲノムベクターを使って長い遺伝子を試験管内で修飾して、操作する技術開発もおこなったのですが、遺伝子断片は、試験管内だと長くなればなるほど粘性が高くなってしまいます。
そうすると操作した遺伝子断片をマウスの受精卵に入れることもできなくなってしまう。そうなると枯草菌を使っていくら長い人工ゲノムを作っても、それを枯草菌から取り出して利用することはできなくなってしまう。
どうすればそのような長大なゲノム領域をハンドリングできるのか、何らかの新たな技術開発が必要であり、嗅覚の研究とは別のこととして取り組んでいます。
嗅覚での課題としては、どの哺乳動物の巨大な遺伝子クラスターを作っている水生型の嗅覚受容体でその制御領域を同定したところまではいったのですが、じゃあそれがどうやってその核の中で遺伝子発現を調整しているのかを明らかにすることを課題として考えていますね。
そこには非常に面白い話がありまして、実はこの水性型の嗅覚受容体の遺伝子クラスターの中に、我々の赤血球を作る「ベーターグロビン遺伝子」が中心的な位置に入り込んでいます。
これもヒトだけでなく多くの動物の生活に大切な遺伝子ですし、この二つがですね、進化の過程を見てみると同じ位置関係をずっと保っている(=水生型の嗅覚の受容体の中にベーターグロビン遺伝子がある)のです。
この位置関係が見られるのが、動物が陸に上がった爬虫類以降なんです。爬虫類以降は真ん中にある。ここにベーターグロビン遺伝子が飛び込んできて、ずっとここに保持されているということは、おそらくこの二つの大事な遺伝子のクラスターが、何らかの相互作用をすることによって、結合のハブになり、お互いの機能を維持しているのではないかと。
それが核内でどのように行なわれているのか、そういった部分も攻めていきたいと考えています。
あともう一つ、産業応用などを考えると、嗅覚の受容体が察知する匂いとして、ユニバーサルに大事な匂いと受容体の組み合わせもあるんじゃないかなと。
何か生理効果がある匂いと受容体の組み合わせが分かれば、例えばこの匂いを嗅いだらリラックスできるよとか。
つまり匂い物質と受容体と脳神経回路という一連の流れが繋がると、どういう風なことをすれば我々は不安を軽減できるのか。
そんなことまで研究ができたらなと思っていて、一つ着目しているのが羊水と呼ばれる我々が胎児のときに母親のお腹に入っているものです。
助産師が出産で赤ちゃんを取り上げた後、「赤ちゃんの手は拭いてはいけない」と言われていますが、なぜかというのは解明はされていませんでした。これは、羊水にも匂いがあって、それはお母さんの匂いとして認識されて、安寧効果をもたらすんじゃないかと推測されます。
実際フランスのグループが生まれたばかりの赤ちゃんを使って実験をしたことがあって、羊水の匂いをそばに置いておくと泣く時間が優位に下がると。
そうすると嗅覚を介して赤ちゃんに安らぎを与える匂い物質と受容体、脳神経回路の一連の流れがわかるのではないかということで、どういう匂いが羊水の中に含まれているかについての研究を突き詰めていきたいなと考えています。
Q:研究室にはどんな学生がいますか。
現在所属している生命理工学院では、学士課程3年の後期から研究室配属されるので、学部生が5名、修士が6名ですね。博士は去年卒業してからいないのですが、今春3名が博士課程に入ってくる予定です。
現在はマウスを中心に研究をしているので、遺伝子の発現制御に関わるもの、あとは神経細胞がどのようにしてできていくのかなどですね。
去年出した論文では、水生型と陸生型の運命選択を人工的に変化させると、水生型の鼻だけを持ったマウスや陸生型の鼻だけを持ったマウスを作ることもできるわけです。すると彼らが感じられる匂いの世界が変わってくる。例えば、水生型だけになったマウスは、腐った食べ物の匂いを極端に嫌がるようになります。
腐った食べ物の匂いはどんな動物でも共通で拒否する匂いなので、水生型でいいのかなと。逆に陸生型の場合は、マウスの天敵臭というものがあって、水生型の鼻になったマウスは天敵の匂いを怖がらなくなってきます。
そういった匂いと動物の行動についても解明していきたいなと思っています。
Q:学生に必要なのはどんな力でしょうか。
これは大学生全般に必要だと思うのですが、大学は学習の場ではなく学問をする場であると考えています。もちろん学習の機会はありますが、学習と学問は違った意味を持つと思います。答えがわからないことに取り組む、そういうチャレンジ精神といいますか、そういう気持ちは常に持っていてほしいなと思います。
そのためには、たくさんの知識を持っていなければならないですね。特に私が研究室にきた学生に求めるのは、例えば何か100のことを求められた時に、それがテストであれば100点満点だから80点、90点取れればいいやとか、そういう感覚はなくしてほしいですね。100のことを求められたら、120、150のことを準備して、取り組んでもらいたいです。
必要なことは忍耐力もそうですし、他人の知識や論文、教科書などに影響され過ぎることなく、自分の実験データをちゃんと見極められる能力です。実験って往々にして予想と違う結果が返ってきたりしますが、その自然に問いかけをするのが自然科学分野の学問であって、そうすると自然が返してくれた答えが正解なわけです。
それは自分の予想と違った場合でも、こんな結果が出てしまったと落胆するのではなく、なんでこういう答えが自然から返ってきたのだろうと考えてもらいたいですね。自分の出した実験データには、自信を持ってもらいたいです。
日本人の学生の特徴でもあると思いますが、教科書とか論文のように活字になっていることを素直に信じてしまう。でも多くの論文には生のデータが出ていて、それを見るのも研究者であって、論文に書かれていることはその研究をした人の解釈であって、それが本当かどうかのジャッジメントはやはり我々がしなければならない。
読む側が書かれていることを全て信じ込んでしまうと、得てして自分のデータを見間違ってしまう。この論文ではこう書いてあったから、こうなるはずだと。そうすると自分のデータが予想と違ったとしたら、自分がいけないのかなと思ってしまう。
しかし自分がしっかりとした準備と確実な技術で実験をしたのなら、自分のデータに自信を持つべきです。論文の方が間違っているのではと疑う気持ちを持つ勇気も必要だと思います。自分で見て、自分で考えて、自分の答えを持ってもらいたいと思いますね。
Q:研究において、企業との関わりはありますか。
ヒトの匂いの受容体のクローニングをしてもらえないかとか、こんなシステムを作ってみませんかとか。あと我々は匂いだけでなく、味覚についての共同研究も行なっています。
一昨年に論文を出したものは、これはアメリカのモネル化学研究所で活躍されている松本一朗先生という方が発見した遺伝子ですが、その遺伝子をノックアウトすると全身の味物質を感知する細胞がなくなってしまうわけです。味は舌だけではないんですね。鼻とか舌とか、ここに発現する化学受容体っていうのは、別にここだけではなく、それ以外の部位でも機能しているのです。
特に味覚の受容体が面白いなと思っているのは、苦味ですね。苦味は毒物の味であって、普通は排除することになるのですが、例えばそれらが気道とか、あとは尿道とか、外と触れ合うところに結構発現しています。
我々が出した論文では、その転写因子をノックアウトすると全身からそういった細胞がなくなってしまうということで、その生体防御機構がうまくいかなくなってしまうと。
例えば何か苦味物質が入ってきてもそれを吐き出す能力がなくなってしまったり、尿道に発現している苦味の受容体は、尿路感染といって細菌の分泌物って苦味を感じるのですが、その感染症が起きると通常ならばその細菌が分泌したものを味の受容体がキャッチして、もっとおしっこを出しなさいよと洗い出すのです。でもそれができなくなってしまう。そういうことが分かってくると、今度はその体の中のさまざまな化学センス、ケミカルセンスという化学物質の受容っていうものは、もっと面白い世界が待っているのではないかなと思います。
例えば我々が探索しているような抗不安効果を持つ匂い物質、それらはやはり商品化に繋がっていくものだと思います。
すぐには商品化はできないかもしれませんが、自然化学、基礎化学の中にもさまざまなシーズが隠れていると考えています。
企業との連携は必要になると思います。幸いにも味覚や嗅覚の研究は、学会が珍しくて、科学者と企業の人が大体半々いる。「日本味と匂い学会」というものがあるのですが、それはアメリカのケミカルセンスの学会と同じように、結構企業とのインタラクションのある領域だといえます。
Q:今後の目標を教えてください。
期待添えず申し訳ないのですが、例えば私がアメリカから戻ってきて設定したテーマもだいたい10年スパンで、2つのテーマを設定してそれを解決するのに10年かかっています。
その2つが終わって、遺伝子の発現が核の中でどういう風に制御されているかの研究も、もう少し長いスパンで見ています。
短期的に1~2年で成果を出すことは考えていませんが、人がやっていない、人とは違う、流行とはちょっと違う方向で物事を見ていきたいなと考えています。(了)
廣田 順二
ひろた・じゅんじ
東京工業大学 生命理工学院 生命理工学系 准教授。
1990年、東京工業大学 工学部 卒業。1995年、東京工業大学 大学院生命理工学研究科 博士課程修了(工学博士)。
1995年より、科学技術振興事業団 ERATO御子柴細胞制御プロジェクト 研究員を務める。
2000年より5年間、米国ロックフェラー大学 博士研究員として研究に従事したのち、2005年より大阪府立大学大学院 理学系研究科 准教授に就任。
2008年より東京工業大学 バイオ研究基盤支援総合センター 基盤部門 准教授。
2020年より現職。