タンパク質や高分子などの柔らか物質を対象に、物理的な研究を行うソフトマター物理では、マイクロリットル以上の体積量をもつ、目に見える溶液中での分子の振る舞いが、実験と理論の両面からひろく研究され、理論的な予測も可能になってきている。一方、分子よりは大きいが目では見えないくらい小さな細胞サイズ(数百ナノメーターから数十マイクロメーター)の系になると、溶液中とは異なる分子の振る舞いが現象として起こっていた。その謎を解明するために研究に取り組み、細胞サイズスケールの分子の特殊な振る舞いを発見したのが、東京大学大学院 総合文化研究科 先進科学研究機構の柳澤 実穂准教授である。近年生物学において相転移や相分離が注目を集めるようになり、この細胞サイズ空間での相転移や相分離の挙動の解明にも期待が高まっている。今回は、柳澤准教授に具体的な研究事例や、今後の可能性について伺った。
細胞サイズ空間での特異な分子の振る舞いを発見
Q:まずは、研究概要について教えてください。
私が注力して研究しているのは、細胞サイズスケールの小さな液体の粒の振る舞いです。私たちの身体を構成している細胞一つひとつも、簡単に言えば、DNAやさまざまなタンパク質が溶けた小さな液体の粒です。最近では、みなさんも身体に抗体をつくるために新型コロナワクチンを接種されていると思います。あの新型コロナワクチンも、膜で覆われた液体の小さな粒のなかにウイルスのタンパク質(スパイクタンパク質)をつくるもとになる設計図、mRNA(メッセンジャーRNA)が入っていて、接種することで身体内にスパイクタンパク質が産出されるようになっています。このように、細胞サイズの小さな粒は、医薬品はもちろん、化粧品や飲料(飲むゼリー)などにも活用されており、私たちの身の回りにある製品と密接に関係しています。
しかし、こうしたタンパク質を含む柔らかな分子を研究対象とするソフトマター物理では、従来目に見えるマイクロリットル以上の体積量を対象としており、1個の液滴の粒ではなく、粒の集団としての振る舞いを研究してきました。しかし新型コロナワクチンのように、液滴が身体に注入されて機能を果たすためには、液滴1個の特徴を理解する必要があります。
私は、ポスドクの頃から新型コロナワクチンで使うような人工細胞における相転移の研究に取り組んできました。そのなかで、従来の理論では説明がつかない現象を示すデータがたまっていき、次第にその検証の必要性を感じ、自分のラボを立ち上げたタイミングで、こうした細胞サイズスケールの研究に取り組み始めました。すると、溶液は全く同じでも、目に見えるスケールとは小さな細胞サイズスケールでは分子の振る舞いが異なることを発見しました。
この細胞サイズスケールは、数十マイクロメーターから数百ナノメーターの範囲で、マクロスケールとナノスケールの中間領域にあたり、およそ毛髪の太さの1/10〜1/100ぐらいの大きさです。このスケールでの分子の振る舞いが分かれば、細胞のなかに含まれている生体分子の基本的な運動や、生体分子が示す相転移・相分離現象を理解するための基礎にもなります。ちなみに相転移とは、「水(液相)」における「氷(固相)」や「蒸気(気相)」といった異なる状態の「相」の間での状態変化のことを指します。相分離は相転移の一種で、水と油のように同じ液体であっても、性質の異なる「相」へ分離する現象のことをいいます。
Q:研究における独自性とは何ですか?
マクロスケールともナノスケールとも異なる、細胞サイズスケールに特異な分子の振る舞いを発見したことです。例えば、マクロスケールでは相分離しない溶液を、細胞サイズスケールに閉じ込めるだけで、相分離してしまう系がたくさん報告されています。最近の研究から、その主な要因が解明されつつあります。その1つが「多分散性」(細胞内に分散している分子の特徴である、分子量や長さや構造などが不均一なこと)です。私たちの身体は、さまざまな形状やサイズの分子から成り立っていて、そのばらつき度が細胞サイズスケールでは無視できなくなってくるため、マクロなスケールとは異なる現象を生み出すことがわかってきました。今後は、このばらつき度を軸に細胞サイズスケールの現象を解明する予定であり、それが研究の独自性になっていくと思います。
Q:これまでの研究の経緯を教えてください。
近年、生物学においては相転移や相分離が注目を集めているため、タンパク質間の相互作用といったナノスケールでの反応に注目して研究している人たちは非常にたくさんいるのですが、私たちのように細胞サイズスケールにフォーカスしている研究者はごく少数です。なぜ、そのような着眼点を持つようになったかというと、先ほど説明したように、これまでの目で見える現象を説明可能な従来の理論では説明のつかない事象が細胞サイズスケールでは数多く観察されたからです。
例えば、タンパク質一種類が溶けている溶液中で、分子がどのようにブラウン運動するのかを研究しました。細胞サイズスケールの液滴のなかで、動くさまを観察するシステムをつくり実験を行うと、満員電車のように分子が数多く入った混雑状態では、動く速度が液滴のサイズが小さくなるほど遅くなることを発見しました。そこから、同じような空間サイズ依存的な現象が細胞サイズスケールだと起きうるのかを、他の現象に対しても研究を始めるようになりました。
Q:最近、取り組んでいる研究を教えてもらえますか?
一番分かりやすい例は、医薬用カプセルの開発です。身体中の細胞の表面は薄い膜に覆われています。そこで、生体親和性を高めるために、同じような膜で覆われたカプセルをつくり、それを体内に入れた後に目的地へたどり着けるような材料開発が進展してきています。ただし従来の膜で覆われた医薬用カプセルは、非常に割れやすい問題を抱えています。そこで通常では、表面に壊れにくくするための高分子を施しています。しかし、その高分子が、体内にカプセルを取り込んだときにアナフィラーキシーショック(アレルギー反応)を起こしてしまう可能性があります。そこで私たちは、細胞骨格のような丈夫な殻を、カプセルを覆う膜の内側につくることで膜を支えると共に、外側の細胞とは触れないようにしました。骨格は、DNAのみから構成されており、DNAの配列を変えてその丈夫さを決定する硬さなどを制御することができます。そのため、硬すぎて血管に詰まってしまうといった問題をクリアできる他、刺激に応じてそのDNA骨格が壊れて、内部の薬物を細胞内へタイミングよく放出することも可能です。
その他には、最初に述べた細胞サイズスケールの液滴中での分子の振る舞いや相転移に関する研究も継続して行っています。目に見えるマクロスケールや非常に小さなナノスケールでの分子の振る舞いがよく研究されてきた一方で、その中間にある細胞サイズスケールでの分子の振る舞いは、あまり研究されてきていません。従来のマクロスケールでの理論を発展させることで、実験的に見出されている細胞サイズスケール特異な現象を物理的に説明すること、そこから細胞内の相分離や相転移現象を理解することに取り組んでいます。
従来の考え方にとらわれない柔軟な発想や視点が大事
Q:研究において課題として感じる点はありますか?
現在、身の回りにある化学物質や生物物質などの製造工程における評価は、液滴の粒1個1個ではなく、粒の集団を対象とすることが一般的です。しかし、1個の粒が示す現象の理解なしには、1つの粒が機能を担う医薬品用の材料開発や、細胞が示す生命現象の物理的理解は進まないと思います。
また、細胞サイズの影響があまり指摘されてきていない理由として、それが誤差として思われて来ている点もあると思います。例えば、さきほど説明した医薬品などにも使われる小さなゲル状のカプセルがあります。元々は丸い形状なのですが、凹んだ粒ができてしまうことがあります。そこで1個ずつ粒のサイズと硬さの比率を解析してみると、ある一定の厚みを持つカプセルにだけ凹みのある粒が生じることが判明しました。ここから、粒のサイズやカプセルの厚みを再調整すれば、凹みのある粒はなくせることが分かりました。しかし現状では、誤差の範囲として処理されてしまっています。この理由として、細胞サイズスケールの影響が世の中に十分認知されていない点があると思います。この分野の研究を広めて、細胞サイズの影響が解明されれば、誤差として処理されている多くの問題を解決できると思っています。
Q:この分野を志す学生に伝えたいことはありますか?
私たちが取り組んでいる分野は、物理学だけでなく化学と生物学の学問も重要になります。現象を理解するという点では物理的ですが、医薬品や化粧品へ応用すると化学工学分野になりますし、また用いる液滴のサイズスケールが細胞と対応していることから、細胞内現象の物理的理解など生命科学分野への波及効果もあります。そのなかで、まず学生の皆さんにお伝えしたいのは、目の前の現象を明らかにしようとするときに、従来の枠組みにとらわれるのではなく、さまざまな視点で研究を展開することです。それゆえ、枠にしばられない柔軟な発想や視点が非常に必要になります。
またほとんどの研究では、最初はうまくいきません。それでも諦めることなく、なぜうまくいかなかったのかを分析して、前に進むことが大切です。自分の持っている知識だけでは、歯が立たないことも山ほど出てきます。多様な専門知識をもつ研究者と交流するだけでなく、研究を通じて気づいたことや、見つけたことをじっくり問い続けることが重要です。
高校であれば自分の知りたいことや明らかにしたいことに没頭したいと思っても、大学受験などがあって、集中できる環境がなかなか得られないかもしれません。その点、大学では自分が探究したいことを積極的に追究していくことができます。女性の研究者はまだまだマイノリティーな存在かもしれませんが、何かをとことん知りたい・学びたいという想いがある人にとっては、大学はとても楽しい環境だと思います。
繰り返しになりますが、この細胞サイズスケールでの分子挙動の研究は、私にとっては長年疑問に思い続けていた課題で、知りたかったことです。正直、最初は半信半疑でした。周りにいる研究者は誰も「分子よりも大きな細胞サイズ空間が分子の振る舞いを変える」とは思っていなかったためです。しかし、実際に実験を行ってみると、マクロスケールともナノスケールとも異なる特異な現象が細胞サイズスケールで生じることが明らかとなってきました。このように、従来の予想とは異なっていても、目の前の現象を信じて諦めずに突き詰めていけば、新たな真理にたどり着くことができます。この瞬間は、研究者である醍醐味だと思っています。
Q:企業に対してメッセージはありますか?
私たちのラボでは昨年、一細胞の力学測定(弾性、塑性、粘弾性)法を開発し、特許出願を行いました。細胞はガン化すると、細胞組織の力学特性が変わることが、さまざまな論文で示されており、今後病理診断で細胞の力学測定のニーズが広まってくれば、企業との共同研究の可能性も考えられると思います。そこで現在は、この技術を改良して、細胞組織の力学測定に関する装置開発にも着手しています。
Q:今後の展望をお聞かせください。
今後10年以内の目標は、細胞サイズスケールでの分子挙動を、きちんと物理的に解明していくことです。それができれば材料研究や生命科学へも応用できるので、社会実装の可能性もさらに高まってきます。(了)
柳澤 実穂
(やなぎさわ・みほ)
東京大学大学院 総合文化研究科 先進科学研究機構
広域科学専攻 相関基礎科学系 准教授
2005年 お茶の水女子大学理学部物理学科 卒業。2007年 お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 物質科学専攻 博士前期課程 修了、 2009年 同大学大学院 人間文化創成科学研究科 理学専攻 博士後期課程 修了 博士(理学)取得。2007年より日本学術振興会 特別研究員(DC1) (お茶の水女子大学)、CNRS Centre de Recherche Paul Pascalにて訪問研究員、日本学術振興会 特別研究員(PD) (京都大学)を経て、2011年5月より 九州大学大学院 理学研究院 物理学部門 助教を務める。2014年5月 東京農工大学大学院 工学研究院 特任准教授を経て、2019年1月より現職。