親のゲノムは子に受け継がれる。近年、ゲノムの機能を制御する「エピゲノム情報」も子に受け継がれることが分かってきた。2017年に卵子から次世代に受け継がれるエピゲノムを新たに発見したのが、理化学研究所 生命医科学研究センター 疾患エピゲノム遺伝研究チーム チームリーダー 井上 梓氏である。その後も、井上氏は卵子においてエピゲノムがどのように確立され、受精後にどのように伝承されていくのかという機構も発見している。今回は井上氏に「エピゲノム」の研究の現状や今後の可能性について伺った。
未知の世界が広がる「エピゲノム」
Q:まずは、研究の概要についてお聞かせください。
生殖細胞のエピゲノムを研究しています。
人間の身体は数百種類の細胞種からなる約60兆個の細胞でできています。このすべての細胞がたった1つの受精卵から発生しています。発生過程で、受精卵が分裂を繰り返し、異なる遺伝子発現パターンを持つ多くの細胞種に分化していきます。
細胞はすべて同じゲノムDNAを持っているにも関わらず、細胞の種類ごとに違う形をしていて、異なる働きを持っています。これは、DNAが裸のまま存在しないからです。DNAは「ヒストン」と呼ばれるタンパク質に巻き付き、コンパクトな形で存在しています。
そして、その「ヒストン」はDNAを収納しているだけでなく、メチル基やアセチル基が付いて遺伝子の働きを抑えたり、強めたりします。このようなヒストンタンパク質やDNA自体への化学修飾を「エピゲノム」あるいは「エピジェネティクス」と呼び、これによって遺伝子発現が制御されます。
例えば、一冊の本に書かれている文字を「DNA配列」だとすれば、本そのものが「ゲノム」にあたり、そこにつける付箋が「エピゲノム」になるわけです。付箋が読者に「読み返す」箇所を知らせる役割を担っているように、エピゲノムは細胞に「この遺伝子を使って(または使わないで)」という指示を送っています。
発生過程のエピゲノムの働きや制御機構については分かっていない点が数多くあります。なかでも、大きな謎とされているのが「受精」の過程です。エピゲノムの分布は発生過程で変化していきますが、これが卵細胞と精子細胞が融合して受精すると、初期化されます。このエピゲノムの初期化は、着床前の胚で起こりますが、「どのように初期化が起こるのか」「どういう意味があるのか」はまだ十分な解明にはいたっていません。この答えを知りたくて、我々は着床前胚のエピゲノムを研究しています。
このテーマに取り組んで15年ほどになりますが、とりわけ重要な成果は、2017年に「Nature」に掲載された論文です。受精によって初期化されるといわれてきたヒストン修飾が、初期化されずに、卵子から次世代に受け継がれることを発見しました。
このヒストン修飾は、卵子に由来する母性染色体の遺伝子の働きを抑えます。一方、精子に由来する父性染色体にも同じ遺伝子が存在していますが、こちらのヒストン修飾は初期化されるため、父性染色体上の遺伝子は活性化できます。こうして母由来・父由来の2つある遺伝子のうち、一方だけが活性化する状態がつくられます。この発見以降、我々は「伝承されるメカニズムとその意味」や「環境と伝承性エピゲノムの関係」の研究を精力的に進めています。
Q:最近は、どんな研究を行っているのですか?
最近、2021年と2022年に1つずつ論文を発表しました。2021年の論文では、伝承されるヒストン修飾が卵子の発育過程でどのように確立されるかを解明しました。2022年の論文では、ヒストン修飾が伝承される意義の一端を明らかにしました。
未発表ですが、環境とエピゲノムの関係性の解明にも取り組んでいます。卵子は卵巣内にある細胞、精子は精巣内にある細胞なので、親世代の細胞といえます。そこから一部のエピゲノムは次世代へと伝承されていくことが分かってきたので、親世代の生活習慣によってエピゲノムが変化し、それが次世代の体質を変えてしまうという仮説が考えられるようになりました。というのも、エピゲノムというのはゲノムに上書きされた情報に過ぎませんので、ゲノム本体とは違って、環境によってある程度変動することが知られています。生殖細胞のエピゲノムも環境によって変化しても不思議ではないよね、ということです。
疾患に関連するゲノム情報は既に解読され、リスク遺伝子なども色々と同定されてきました。しかし、ゲノム変異だけでは十分に説明のつかない多因子遺伝疾患がいくつも報告されています。そういった疾患のなかには、エピゲノムの変化とその伝承が一因になっている疾患もあるのではないかと考えています。
このような話はDOHaD学説(ドーハッド、developmental origin of health and diseases、成人病胎児期起源説)を連想させます。DOHaDは、オランダで行われた大規模なコホート研究が元になっています。第二次世界大戦中、オランダの西部地方で深刻な食糧不足に見舞われ、多くの人が飢餓状態に陥りました。こうした環境で妊娠していた女性から生まれた新生児の追跡調査を行ったところ、成人後に糖尿病や高血圧などの生活習慣病を発症するリスクが上がっていることが分かりました。胎児期の環境が出生後の体質に長期的に影響を与えてしまう、まさに「エピゲノムの変化による健康への長期的な作用」と言えます。
卵巣や卵管の微小環境が卵子や初期胚のエピゲノムにどのように影響するのか。変化したエピゲノムが次世代にどのように伝わっているのか。分子レベルでそれらを理解すれば、生活習慣病のリスク軽減だったり、健康的な卵子の育て方や卵子の老化メカニズムなどの理解にも役立つと、我々は考えています。
Q:この研究の独自性は、どんな点にありますか?
概念的な独自性は、やはり受精後も初期化されないエピゲノムを見出せたことが、最も重要な点だと思います。このおかげで、その機構や意義に関しての新しいオリジナルな疑問が数多く湧いてきました。
研究ツールの面での独自性は3つあります。
1つ目は卵子と精子を顕微授精させるのに使われるような「顕微操作技術」です。ヒトの不妊治療にも活用されているものです。我々のラボでは、様々な核酸を導入したり、細胞核を除いたり、他の核と交換したりといった、高度な技術を持っています。2つ目は、「超微量DNA解析技術」です。卵や受精卵は生体内に存在する数が非常に限られています。1匹のマウスからせいぜい30個しか得られません。従来のエピゲノム解析技術だと10万個以上の細胞数が必要になるので受精卵への応用は不可能ですが、今の我々の技術なら100個程度の細胞数でエピゲノムを解析できます。おかげでエピゲノムの初期発生動態を高解像度で視えるようになり、これまでは難しかったメカニズム解析もできるようになってきました。3つ目は卵子においてエピゲノム関連遺伝子を改変した様々な「マウスモデル」です。この3つを組み合わせれば、自然とユニークな研究が行えます。
エピゲノムネットワークを分析し、コアとなるエピゲノムを見出す
Q:これらの研究の課題は何でしょうか?
技術的な課題として、将来的にあったらいいなと思うのは、エピゲノムの「ライブイメージング技術」です。現在のエピゲノム解析は、基本的には細胞を破壊せざるを得ないため、細胞を破壊する瞬間の「定点観察」です。
「世代を超えるエピゲノム」といっているように、本来我々の研究は「連続性」が重要な概念です。「エピゲノムがどのように伝承するのか」「エピゲノムが環境に応じてどのようにタイムリーに変動するか」を知るためにはエピゲノムの動きをライブで追う動態観察が必要です。もしエピゲノムを高解像度に、かつ、ゲノム内の位置情報を保持した状態で、初期発生過程を「ライブイメージング」できれば、これまでの謎も解明できるようになってきます。
現段階では、そのようなライブイメージング技術は確立されていませんが、技術というのは急に予想しないところから出てきたりするので、そこは楽観的に考えています。新しい技術が現れたときに、自分の研究に活かせるように、今は情報収集を怠らないようにしています。
分野の課題としては、「環境とエピゲノム」の関係性がまだ分子レベルで明確に見えてきていない点があります。例えば、「ヒストン修飾」と一言でいっても、その数は100種類以上あります。様々な環境ストレスに対して、卵子のどのようなゲノム領域の、どのようなヒストン修飾に応答性があるのか、だれも知りません。この理解に向けて、「エピゲノムネットワーク」に関する研究も行っています。卵子の中のエピゲノムを書き込む酵素や取り除く酵素をなくすことで、他のエピゲノム修飾はどう変化するのか。卵子のエピゲノムが変化することで、受精したあとのエピゲノム動態や発生プログラムにどのような影響を及ぼすのか。こうしたエピゲノム修飾同士のネットワークを解明することで、まずはコアとなるエピゲノムを見つけたいです。
倫理的な課題については挙げると数限りなくありますね。いずれはヒトの受精卵の研究をしたいですが、まだまだ難しい状況です。
Q:この分野を志す学生には、どんなことが必要でしょうか?
まずは「好奇心」だと思います。研究活動を通じて、「自分が何を知りたいのか」を見つけると良いです。最初はなくてもいいのですが、それが常に人頼りだと長続きしません。
あわせて「観察力」も大事です。最初は指導教員から与えられた研究テーマでも、好奇心と観察力があれば、研究を進めていくうちに「なぜ、こんなことが起こるのか」という新たな発見に巡り合うことができるはずです。小さい発見でも、そうした発見ができれば、自走して研究が行えるようになっていきます。この場合、かなりマニアックな研究テーマになりがちですが、それでいいのです。学生のうちは、これで全く問題ありません。私が当時そうしてもらったように、大学院の指導教官はそれを横で暖かく見守ってほしいです。
また、「1つのトピックを長く続けること」も大切です。私の場合、受精卵の研究ということになりますが、やはり研究を続けていると、その時々に疑問が湧いてきます。しかし、その時は証明しきるためのツールがなかったりして、保留にしてしまいます。長く続けていると、このような問いがたくさん蓄積していきます。それが技術の進歩により、以前ではできなかった研究が行えるようになり、保留にしていた問いに対して本格的に向き合えるようになってきます。これは、1つの研究を長く続けてきたからこそ得られることだと思います。
Q:アイデアの元となる「問い」はどのようにストックされているのでしょうか?
裏書きですけど、アイデアが思いついたら、常に書き留めています。芸人さんのネタノートみたいなものですね。書いたメモはファイルにまとめてストックしています。今だと100個以上はあると思います。見返すとしょうもないものだったり、今取り組んでもツール不足で証明しきれないものばかりです。いつか技術が追いつくのを待っています。
Q:企業に期待することはありますか?
今は「環境とエピゲノム」というテーマに興味を持っています。環境といってもさまざまで、栄養素、薬物、ストレス、アレルゲン、老化も環境です。「環境によってエピゲノムがどの程度変化するのか」「環境によって変化しやすいホットスポット的なゲノム領域があるのか」「エピゲノム変化がどのように健康に影響を与えるのか」—さまざまな問いが立てられると思うので、そういったテーマに関して、エピゲノムを1つのアウトプットとして考えてもらえる企業と、共同研究できればと思っています。
Q:今後の目標を教えてください。
今、凄まじいスピードで地球環境の変化が起こっていますよね。このような短期間での環境変化は、これまでの生命の進化上に経験のなかったものです。この環境変化に生物は適応していかなければいけませんが、これまでの進化のようにゲノム変化をのんびり待っている猶予はないかもしれません。環境に適応するためのエピゲノムの伝承機構は、線虫やハエなど世代の短い動物では見つかってきています。ヒトにも、我々がまだ気がついていないだけで、その潜在能力はあるかもしれませんよね。将来的には、エピゲノムの伝承による環境適応機構を哺乳類でも見つけていきたいですね。(了)
井上 梓
(いのうえ・あずさ)
理化学研究所 生命医科学研究センター 疾患エピゲノム遺伝研究チーム チームリーダー
2006年東京都立大学理学部生物学科卒業。2011年東京大学大学院新領域創成科学研究科 先端生命科学専攻博士課程修了。2011年米国ノースカロライナ大学チャペルヒル校ポスドク研究員、2012年ハーバードメディカルスクール リサーチスペシャリスト、2018年理化学研究所生命医科学研究センター 融合領域リーダー育成プログラム Young Chief Investigatorを経て、2022年より現職。2019年4月より東京都立大学 客員准教授を兼任。