近年注目されている量子コンピュータは、量子力学に基づく並列計算の仕組みをベースとしており、大規模な計算を短時間で解決することが期待されている。しかしながら、劇的な計算時間短縮を達成する理想的な量子コンピュータを実現するためには、まだまだ乗り越えなければいけない課題が多い。いっぽう、すでに実用化できるレベルの量子コンピュータで解決できる社会課題に取り組むという方向性も生まれている。この方向性の典型が、IBMが推進する「IBM Q Network」プロジェクト。このアジア地域ハブの責任者を務めるのが、慶應義塾大学理工学部物理情報工学科の山本 直樹准教授。今回は同ハブ内で、量子コンピューティングの理想と現状の可能性について山本准教授に伺った。
量子コンピュータは、並列計算の究極の形
Q:まずは、研究の内容について教えてください。
研究の背景からお話しすると、近年は「量子コンピュータ研究バブル」であると言えます。といっても実は、量子コンピュータ研究分野の歴史は古く、30年以上にわたって研究が進められてきました。量子コンピュータの研究が盛んになった契機は、1994年に出版された、アメリカのピーター・ショアによる論文です。彼は、量子コンピュータによって素因数分解を高速に実行できることを証明したのです。
素因数分解というものは、なかなか骨の折れる作業です。例えば「6887という数を素因数分解せよ」と質問されたら、普通は「3で割ってみる, 5で割ってみる, 7で割ってみる, …」とやるわけです。答え「71×97」に到達するには結構時間がかかりますね。同じことを巨大な数相手にやるのは非現実的です。現代の暗号というものは、この素因数分解の困難さに則って確立されています。短時間で解くことが難しい問題をベースにして、暗号の安全性を保証しているのです。実際、従来型コンピュータでは、いわゆるRSA暗号を現実的な時間内で解くアルゴリズムは現在のところ知られていません。
しかし、理想的な量子コンピュータができれば、ピーター・ショアによる量子アルゴリズムは、RSA暗号を数日といった現実的な時間内で解いてしまいます。これはまさに、現行のセキュリティシステムの崩壊を意味します。特にアメリカの軍部のようにセキュリティを非常に重要視している組織が先んじて莫大な金額を投じて、一気にこの分野を盛んにしました。
では、なぜ難しい素因数分解を簡単にできるのでしょうか。
まず量子を使わない普通の世界では、情報の単位は「ビット」です。これは0または1の値をとります。つまり、1ビットで2通りの情報を表すことができます。3ビットあれば、000、010、などの8通りの情報を表せます。しかし量子の世界では、こういった情報に対応するものが同時に存在する、という状況を作り出せます。直感的な言い方ですが、量子の世界では物事がきっちりと定まっていないので、0でもあり1でもある状態、というのが起こり得ます。これを「重ね合わせ」と言うのですが、まさに猫が生きているのか死んでいるのかどちらもあり得るというような、中途半端な状態が起こり得るわけです。
量子の世界では、情報の単位は「量子ビット」と呼ばれます。1量子ビットは2通りの情報を同時に扱えます。量子ビットが50個あったら、2の50乗つまりだいたい10兆くらいになりますが、その10兆個の状態が同時に存在しているということになります。そしてこのことは、これだけの個数の情報の同時計算ができるということを意味します。
普通はそういうことをしようとすると、それだけの数のコンピュータを並べなければできません。これを並列コンピュータといいます。しかし、それを1台でやってしまうのが量子コンピュータです。いわば、「並列コンピュータの究極の形」であるといえるでしょう。この並列性をうまく使うと、素因数分解を桁外れに速く実行できるようになります。
さて、ショアの論文が発表されたのは約25年前の話になりますが、RSA暗号で使われるような巨大な数の素因数分解を高速に実行できるような量子コンピュータは未だに実現されていません。そのような量子コンピュータは、数千個の量子ビットを自由に操作できるようなものでなければいけない、と言われています。これは非常に厳しい要求事項です。1999年ごろにはじめて1個の個体量子ビットを自由に動かす技術が開発されて、2000年前後には2個動かせるようになり、3個4個と遅い歩みが続いたわけです。そして最近では、IBMが20個の量子ビットを操作できる量子コンピュータを実現しています。といっても、数千個にはまだほど遠い状態です。
そこで近年では、50量子ビットや100量子ビットといった小中規模の量子コンピュータで何ができるのだろう、という研究が盛んに行なわれています。とくに機械学習や材料科学への応用に関する研究が世界中で精力的に進められています。材料科学の場合、ある化合物を作るのに色々な素材の組み合わせを試すわけですが、しらみつぶしにトライ&エラーを繰り返すため、膨大な時間がかかってしまいます。量子コンピューティングは、そのトライ&エラーのようなことを同時に行なってくれるため、この探索時間を大きく短縮してくれると期待されています。
ちなみに、量子コンピューティングは「省エネ」の面でも非常に注目されています。普通のコンピュータは、例えば3+4=7の計算過程で3と4という情報を捨てています。なので、出力=7から入力=3+4と一義的に結論づけることはできません。1+6でもいいからです。微視的には、情報を捨てると熱が発生するので、コンピュータを保護するために冷やさないといけません。結局、エネルギー効率的な面でも限界があるわけです。一方で、量子コンピュータは「可逆計算機」です。つまり、量子コンピュータは入力データを全て保持するので、その意味で「可逆」です。入力データを保持していくということは情報を捨てないということなので、計算過程そのものは熱を発生させません。この熱を取り除く必要がないので省エネである、ということです。
Q:こうしたなか、民間企業であるIBMではどこまで開発を進めていたのでしょうか。
そもそもIBMは、20年以上にわたって量子コンピュータ開発研究を行なってきた、分野のひとつの総本山です。そしてIBMの何がすごいかというと、2016年に、最初に5量子ビットの量子コンピュータ IBM Q Experience をフリーで使っていいですよと全世界にクラウド公開したことです。この、規模は小さいですが本物の量子コンピュータが全世界の誰でも使えるという状況は、一昔前は夢物語でした。いまユーザーは全世界で6~7万くらいになっていると聞きますが、これをベースにした学術論文が100通以上出ています。IBMマシンを使って量子コンピュータ研究をする、という流れができているわけです。
そして現在の IBM Qは20量子ビットを扱えます。この量子コンピュータは、約100万通りの計算を同時に実行する能力をもちます。そして、IBMはこの量子コンピュータ研究のためのプログラミング開発環境まで整備しています。この状況を実現するまでにIBMは20年以上の時間をかけているわけで、この情熱には本当に感服します。
Q:IBMハブはどのような体制になっているのでしょうか。
IBMと提携するハブは世界で6ヶ所あって、そこでは20量子ビットのIBM Qマシンが使えます。各ハブには様々な会社が参画して、産学で量子コンピュータ研究を推進しています。アジアだと慶應大学がハブとなり、ヨーロッパはイギリスのオックスフォード、アメリカのノースカロライナというようにいくつかのハブがあります。慶應ハブでは、私が現場責任者をやらせていただいています。
実は、慶應大学のなかに20量子ビットマシンの本体があるわけではありません。本体はアメリカ・ニューヨークのヨークタウンハイツにあるIBMワトソン研究所内にあって、そこにリモートアクセスするシステムになっています。こちらではアルゴリズム開発などのソフトウェア研究がメインです。構築したアルゴリズムを実行する命令を出すと、アメリカにあるIBM Qが計算を行ない、その結果が返ってくる、というクラウド量子計算をベースにしているわけです。
現在、このIBM Q慶應ハブでは、様々なプロジェクトが進行しています。
Q:アジアのハブとして、この研究所の体制はどうなっていますか?
「量子コンピュータのソフトウェアに特化した研究をする組織」ととしては、おそらく国内で最も大きな組織といえると思います。参画頂いている企業とIBMから研究員の方々が常駐しており、またハブ専任の教員を新たに雇用しています。プロジェクトに参加している学生も大勢いますので、組織としてはかなり強力なものと思います。
ちなみに、私は物理学科卒ではありません。東京大学の計数工学科というところの出身で、そこでは情報、制御、最適化、いまではAIなどが盛んに研究されていますね。広く言えば「応用数学」が私の専門です。慶應ハブのメンバーにはネットワークを専門にしている人もいますし、情報科学や化学、もちろん物理の人もいます。そう考えると、かなり多彩な顔ぶれであるといえますね。このことの裏には、このような多彩なメンバーからなる組織をつくらないと、斬新な研究成果を生み出せないのでは、という考えがあります。「オープンイノベーション」とか「多様性」などと言われたりもしますが、様々な分野のエキスパートたちと協力をしながらやっていきたいですね。
先ほど挙げませんでしたが、現在、JSR、三菱UFJ銀行、みずほフィナンシャルグループ、三菱ケミカルの4社に参画いただいていて、各社から専門家を派遣いただいています。金融業務のプロや、材料科学・化学のプロもメンバーにいます。さまざまな知見をもとに、量子コンピューティングのソフトウェア研究を推進していこうというわけです。
たとえば現在、ある種の金融問題の計算には半日〜1日かかると言われていますが、それが量子コンピュータによって1時間ほどに短縮できれば素晴らしいですよね。そのような、中規模量子コンピューティングが使えるかもしれない現場の課題を、各社のエキスパートから教えてもらっています。
5年後の進歩に向けて、アルゴリズムを開発する
Q:現在感じている課題はどんなことでしょうか。
先ほどお話ししましたが、現状は素因数分解を意味のある時間内で実行できるような強力な量子コンピュータはありませんので、小中規模の量子コンピュータで解決できる実問題を探索しているわけです。課題はたくさんあって、例えば現在我々が利用しているIBM Qマシンはエラーを訂正する機能をもっていません。そのため、エラーの影響下でいかに賢いアルゴリズムを組んでいくかということが、ひとつの大きな課題であると言えます。
これには泥臭い作業が必要で、アルゴリズムコンテンツを解体して、より良いものを見つけるような作業も必要となります。そういったことに専門家や学生が知恵を寄せ集めてアタックしている、というのが現在の状況ですね。
実を言いますと、この業界を一変させるようなブレイクスルーはまだありません。この先、量子ビット数が50、100、150、・・・と増えていく過程で、真に役に立つ量子コンピュータの使い方を見出せれば嬉しいのですが、まだそこまでは読めていません。どういう方向に行くのだろうという感じです。ここまで先の見えない研究をするのも、なかなかエキサイティングだなと思いますね。
例えば、数百〜千個の量子ビットがあれば、タンパク質などのシミュレーションができると言われています。また、これは物質探索法の新しいスタンダードになると考えられます。また、タンパク質の折りたたみは何らかの最適化をしているのではないか、という生物の進化に関する予想があって、そういったサイエンスの根本的な問題の解明に対しても量子コンピューティングは使えるのではないかといわれています。
実は、慶應ハブは「2年半で一区切りつける」ことを予定しています。2年半というのは、こういった分野においては相当短い期間です。もちろん2年半で完全に終了・解散というわけではありませんが、そこに向けて量子コンピュータの可能性をはっきりさせることを一つの目標としています。課題の洗い出しと、様々な知恵を寄せ集めていくというわけです。
Q:研究室には、どんな学生がいらっしゃいますか。
私は、IBM Q慶應ハブとは別に自分の研究室を持っているのですが、そのうち3人の学生が量子コンピューティングの研究を行なっています。そのうち1人の学部4年生は、すでにIBM Qを使って、実量子コンピュータ実機による素因数分解実験をやっていました。これは数年前では考えられなかったことです。学部3年生の学生で、量子コンピュータプログラミングがしたいと研究室配属希望を出してくる学生もいます。ハブのプロジェクトに関わっている学生で、学部3年生ですでに国際会議発表をしている学生もいますし、ほかにも量子機械学習のプログラムをばりばり書いている学生もいます。将来が楽しみです。
Q:企業との関わりで感じていらっしゃることはありますか。
現在ハブに参画いただいている企業は金融業と化学メーカーですが、現段階ですでにたいへんな面白さを感じています。アカデミックに閉じていると見えていなかった面白い問題にたくさん遭遇できるようになりました。また、ハブとしてはまだ協働できていませんが、製造業などはエンジンやデバイスの設計に関する実問題を山ほど抱えています。
私がもともとそっち方面の出身ということもありますが、効率の良いアルゴリズムを構築するのに量子コンピューティングを使えないかという問い合わせや共同研究の可能性打診などもあって楽しいです。そういった自分の工学寄りの部分を強みとして、将来的には、製造業との共同研究も実施できたらと思います。
Q:最後に、次の目標について教えてください。
なかなか先の読めない研究ではありますが、数年内に、100個くらいの量子ビットが安定的に稼働するような量子コンピュータが使えるようになっていると期待しています。このくらいの規模はある種の臨界点といわれていて、普通のコンピュータではシミュレートできない問題が扱えるようになります。
このレベルの量子コンピュータを使うと、これまでお話してきたような超高速計算ができるようになる、ということに加え、私たちには今まで捉えられなかった、理学的にも工学的にも新しい現象が見えてくるのでは、と思います。
次の目標というのとは違うかもしれませんが、いまのうちに小中規模マシンを使って量子コンピュータの「くせ」に慣れておいて、将来的に量子コンピュータが開く新しい世界でも有効に機能する独自の量子アルゴリズムが開発できたら、と考えています。(了)
山本 直樹
やまもと・なおき
慶應義塾大学 理工学部・物理情報工学科 准教授
1999年、東京大学工学部計数工学科 卒業。 2004年、東京大学情報理工学系研究科システム情報学専攻修了(博士)。2004年より3年間、カリフォルニア工科大学Department of Physics 博士研究員。2007年よりオーストラリア国立大学Department of Engineering博士研究員。
2008年より慶應義塾大学 理工学部・物理情報工学科専任講師、2011年より同准教授となる。