神経回路の形成メカニズムの基礎となっている、ドナルド・ヘッブが発見した「ヘッブ」という脳内のニューロン結合の法則がある。2019年に嗅覚領域において、これとは異なる第二の法則を発見したのが東京大学 大学院理学系研究科の竹内 春樹教授である。その他にも、企業と組んで匂いを用いた認知症予防をテーマとする研究にも取り組んでいる。今回は、竹内教授が発見した法則のメカニズムの基礎研究と、多くの企業や団体と取り組んでいる応用研究について話を伺った。
従来の同期性ではなくパターンによる神経回路の形成機構を発見
Q:研究概要について教えてください。
大きくわけて、2つのテーマで研究しています。
1つは、匂いを使って認知症や精神疾患の予防ができるかどうか、その科学的な根拠を検証することです。嗅覚は、調べれば調べるほど興味深い感覚です。私たち人間は「視覚の動物」と言われますが、光を受容するために使われる遺伝子の数はたったの4〜6個しかありません。味覚に関しても数十個ですが、嗅覚に関しては約400個もの遺伝子が存在します。人間が持つ全ての遺伝子は約2万数千個とされているため、そのうちの1〜2%を嗅覚に関わる遺伝子が占めています。これは、嗅覚が進化の過程で重要な役割を果たしてきたことを示しています。
一方で、「五感の中で、失うとしたらどの感覚を選びますか?」と尋ねると、多くの人が「嗅覚」と答えます。この嗅覚に関わる遺伝子の多さと嗅覚に対する軽視のギャップはどこに起因するのでしょうか?
この理由を考える中で、一つの仮説に辿り着きました。例えば、タバコやアルコールは長期的に見れば健康に悪影響を及ぼすことは周知の事実ですが、短期的にはその悪影響を実感することは少ないです。匂いを嗅ぐことも同様に、長期的にはポジティブな効果をもたらしているものの、日常的にはその効果を実感しにくいのではないかと考えました。長期的な視点で見れば、嗅覚は人間の健康維持に重要な役割を果たしている可能性があります。実際、認知症などの記憶障害が現れる前に嗅覚機能が低下することが知られています。また、新型コロナウイルス感染症により嗅覚障害を発症し、その後うつ病に罹るケースも少なくありません。
嗅覚は数日間おかしくなっても大きな影響はありませんが、これが1年間も続けばQOLは低下し、メンタルヘルスにも影響を及ぼすでしょう。嗅覚に400個もの遺伝子が関わっているのは、匂いに常時晒されて生活することが人間にとって重要であることを示唆しています。匂いという刺激は本能的な行動や感情を司る「大脳辺縁系」に直接届き、脳にダイレクトな影響を及ぼすとされていますが、そのメカニズムはまだ完全には解明されていません。
匂いによる認知症予防を考えていた2010年代の中頃、特定のパターンの光や音刺激によって、脳内にガンマ振動という特定の脳波が惹起され認知症モデルマウスの症状が改善したという実験結果が発表されました。その論文を読んだ時、匂い(香り)の方がより簡便で、より高い効果が期待できるのではないかと考えました。なぜなら、匂い刺激は、特別な機器を用いずとも空間に噴霧するだけで脳にガンマ振動を惹起できること、そして嗅覚回路は、認知症で最初に障害される脳領域に直接情報を伝達していることがわかっていたからです。匂いを使って空間をデザインすることで、非侵襲的で、安価、簡便、そして副作用のない認知症の予防法が開発できるのではないかと考えました。
この匂いを用いた認知症予防のテーマは多くの企業や財団から賛同を得ており、現在多くのサポートのもとで共同研究を精力的に進めています。匂いを使って認知症を予防・改善できれば、医療費の削減などの社会的課題にも貢献できます。もちろん、まだ実験動物を用いた段階であり、すぐに社会実装できるわけではありませんが、少なくとも数年以内には匂いのある空間にいることが認知症の予防に効果をもたらすことを示す科学的根拠の一部を提供したいと考えています。
もう1つの研究テーマは神経科学における基礎研究で、哺乳類の脳神経回路がどのように形成され、機能するかを理解することを目的としています。特に、遺伝的なプログラムだけでなく、生後の神経細胞の電気的な神経活動が回路の成熟にどのように関与するかに焦点を当てています。発達期における神経細胞の適切な活動と、それに伴う回路の成熟は、その後の動物の行動や機能に極めて重要な役割を果たします。例えば、ネコの実験では、幼少期に片方の目を遮蔽すると、大脳皮質の視覚回路に異常が生じ、永久に視覚が失われることが知られています。このように、神経回路の形成がうまくいかないと重篤な神経疾患につながるため、神経活動を通じた回路形成の原理を解明することは非常に重要です。
私はこれまで、マウスの嗅覚系に注目して神経回路の形成メカニズムを研究してきました。匂いの受容を担う受容体遺伝子は、人間で約400種類、マウスで1000種類以上存在し、各嗅神経細胞はその中から一種類だけを選んで発現します。同じ受容体を発現する嗅神経細胞の軸索は、発達過程で特定の位置に集まり、嗅球と呼ばれる脳の部位に投射されます。これにより、嗅球上に受容体の数に相当する糸球体マップが形成されます。このマップの活動パターンを脳が読み取ることで、多様な匂い分子を識別することができます。
糸球体マップの形成には、神経活動が重要な役割を果たしていますが、具体的なメカニズムは明らかにされていませんでした。1949年にドナルド・ヘブが提唱した「ヘブ則」は、神経細胞が同時に活動することでシナプス結合が強化されるというモデルですが、私は光遺伝学や光イメージングなどの最新技術を用いて、発達期の嗅神経が多様な神経活動パターンを生み出し、その活動パターンが回路形成に関わる遺伝子の発現を調節することを明らかにしました。これは、嗅覚神経回路が「神経活動の同期性」ではなく「神経活動の時間的パターン」に基づく新しい機構によって形成されることを示しています。
教科書に記載されてきたヘブ則は、神経細胞の可塑性を説明する唯一のモデルとして広く知られてきたことから、私たちの発見は、教科書の内容を見直す必要があるほど重要なものであり、脳の発達や記憶の形成に関わる基本原理を理解する上で大きな一歩となります。この研究を通じて、脳の神経可塑性の基盤となるメカニズムを解明し、神経疾患の治療や予防に役立てたいと考えています。
Q:研究テーマにおける独自性はどんなところにありますか?
私の研究テーマの独自性は、神経科学という学際領域において、多様な実験手法を融合している点にあります。基礎研究の分野では、遺伝子や分子を操作する分子生物学的な手法を用いるラボと、神経細胞の電気的な活動を計測し、脳の作動原理を理解する電気生理学を主体とするラボに大きく分けられます。
私は学生時代に分子生物学の手法を学び、卒業後は電気生理学を専門とするラボで研究を行ってきました。この経歴を生かして、私の研究室では異なる分野出身の研究者を配置し、分子生物学と電気生理学の両方の手法を統合して実施できる環境を構築しました。研究室の名前もこれにちなんで「分子神経生理学」としました。
また、これまで20年以上にわたり基礎研究に従事してきましたが、現在のポストについてからは、企業と協力し、企業のニーズにアカデミアの立場から応える研究も開始しました。いわゆる基礎から応用というスタイルです。さらに、企業のニーズを深く掘り下げ、その背後にあるメカニズムや現象の原理・原則を理解することで、社会的ニーズに基づいた基礎研究の課題を見つける試みも行っています。このように、企業との連携を通じて、応用研究と基礎研究の橋渡しをするスタイルは、これまでの理学部の研究室にはない独自性が生まれてくると考えています。
フットゴルフをモデルに「匂い」とパフォーマンスの関係性を研究
Q:今取り組んでいる、新たな研究は何かありますか?
実は趣味で長年サッカーをやっており、現在も東京都のシニアサッカー連盟に所属し、東京都の一部リーグでプレーしています。2023年には東京都リーグ戦で優勝し、全国大会にも出場しました。趣味であるサッカーを通じて、サッカー(フットボール)とゴルフを融合した新スポーツ『フットゴルフ』を日本に広めた一般社団法人フットゴルフ協会の会長である松浦新平様と知り合うことができました。日頃から懇意にしており、そのつながりから現在、フットゴルフ協会と共同研究を進めています。
フットゴルフは、ゴルフと同様にホールに少ない打数でボールを入れることを競い合うスポーツです。クラブとゴルフボールの代わりに、フットゴルフは競技者の足とサッカーボールを使用します。蹴るタイミングは通常のサッカーと異なり、自分で決められます。ゴルフと同じく最初のティーショットが、その後のパフォーマンスに大きく影響を与えます。つまり1発目のショットがうまくいくと、高い確率でその日は良いスコアに恵まれるわけです。
そこで私は、「匂い」を使って、気持ちを乱さずにティーショットに集中できるルーティンをつくり、いかにしてパフォーマンスを高めるかの実証実験を行う予定です。サッカーでは審判の笛の音で気持ちを入れ替え、試合に集中しますが、フットゴルフの場合は、打つ前に行うルーティンがその役割を担うと考えています。
実験には、フットゴルフプレーヤーだけでなく、学内のサッカーを愛する友人たちにも協力を仰いでいます。彼らは神経科学だけでなく、様々な領域で活躍しており、様々な観点からアイデアを出し合ってもらっています。これは、私の趣味の延長であり多分にエンターテインメント的な要素を含んでいますが、何か驚くような発見ができればと思い、楽しく取り組んでいます。
Q:「匂い」を社会実装する上での、課題はどんなところにありますか?
「匂い」を社会実装する上での課題はいくつかあります。第一に、匂いは一度広がると周囲に充満してしまう特性があります。このため、特定の空間や人に向けた匂いの制御が難しい点が挙げられます。
次に、個々人の匂いの好みが異なるという点も大きな課題です。日によって好みの香りが変わることもありますし、同じ匂いを長時間嗅ぎ続けると順応してしまい、効果が薄れてしまいます。このため、匂いの多様性や変化を取り入れる工夫が必要です。
さらに、匂いの社会的な受容性や健康への影響についても考慮が必要です。特に公共の場では、多くの人が集まるため、特定の匂いが不快に感じられることや、アレルギー反応を引き起こす可能性もあります。解決策の一つとして、工学的なアプローチが挙げられます。例えば、センサー技術を活用して、人が来た時だけ匂いが発生するような装置を開発することが考えられます。また、匂いの種類や強さを調整できるデバイスを使用して、状況に応じて最適な匂いを提供することも有効です。
さらに、匂いの効果を科学的に検証し、その有効性を証明することも重要です。例えば、特定の匂いがリラックス効果や集中力向上にどの程度寄与するのかをデータとして示すことで、より多くの人々に匂いの価値を理解してもらえるようになるのではないでしょうか。
Q:この研究に取り組もうと考えている学生にメッセージはありますか?
学生のうちは、あまりコストパフォーマンス(コスパ)を考えない方がいいと思います。 いわゆる「コスパ」という言葉は「ラクをしたい」ことと非常に近しい気がします。
まず、あまり頭で考えすぎずに、とりあえず動いてみることです。やる前から「これをやることで自分にどんなメリットがあるのでしょうか」と考えると後々損をするのが、個人的な経験からも、この業界の性であると直感しています。
学生によく話しているのが、ノーベル賞の話です。ノーベル賞は、さまざまな分野の研究者たちが受賞しています。しかし私自身、生物以外の分野だと、なぜ受賞に至ったのか理解が及びません。同じ研究者でも測れない価値や見たことのない世界がたくさんあるのです。
同じように、学生の立場では見えていない世界が、まだまだたくさんあります。自身の支払うコストである時間や労力は実感として測れますが、それによって得られるパフォーマンス、すなわちリターンの大きさを予測的に測る力はまだ備わっていないということです。研究というのは、0から1を生む活動です。学生はもちろん先生を含む研究者が未知のことを解明していくプロセスです。経験のある研究者は、こうすればそこに辿り着けるのではという予測は立てられるものの、その精度は100%ではありません。トライしてみたが、想定している成果を得られないことも多々あります。一方で、手を動かしている最中に、考えもしなかった新たな発見に出会う可能性も大いにあります。いわゆるセレンディピティです。
したがって、研究の世界に片足を付けてすぐにコスパを考えることは、あまりお勧めしません。自分なりのこだわりも大事ですが、最初は人の意見を受け入れて、やってみてから判断する「素直さ」や「柔軟性」を育てるのも、自身を成長させるよい手段だと感じます。
Q:企業との共同研究も積極的に行われているようですが、どのような研究を行っていたりするのでしょうか?
代表的な共同研究事例を2つ紹介します。
1つ目は、埼玉県越谷市に本社を置くハウスメーカーのポラスグループ(株式会社中央住宅)様との産学連携プロジェクトです。このプロジェクトでは、低温乾燥方式によりフィトンチッドの残存率を高めた国産杉パネル[SUGINOKA【スギノカ】]を開発し、2019年度のウッドデザイン賞、2020年度のグッドデザイン賞を受賞しました。このパネルを使って、築63年の無機質な作業空間だった私の居室をリノベーションしました。匂いの機能性と空間のデザイン性により、私と学生のコミュニケーションの活性化や集中力の向上を目指した居室に仕上がっています。
もう1つは、三井不動産株式会社様、三井ホーム株式会社様との共同研究です。嗅覚の神経回路は、記憶や情動を司る脳領域によりダイレクトに刺激を与える神経回路を有しています。その構造的特性に着目して、木の匂いが認知症などの神経変性疾患に対する予防効果を検証しています。具体的には、数種類の木材を用いて匂いの空間をつくり、マウスを使ってその仮説の検証やメカニズムの解明に取り組んでいます。この2社以外にも、先ほど取り上げたフットゴルフ協会、ソニー株式会社様や株式会社TENTIAL様などとも産学連携プロジェクトを進めています。
Q:今後の展望を教えてください。
私たちは、基礎研究と応用研究の二軸で取り組んでおり、それぞれの研究においてしっかりと成果を上げたいと考えています。まず、応用研究の分野では、「匂い」という嗅覚の領域で「これは面白い!」と思っていただけるような社会的インパクトを示していきたいと思います。経済的な側面は企業が考えてくれると思うので、我々は長期的な視点から、「匂い」がメンタルや脳を守るという仮説を科学的に検証し、その効果・効能を認めてもらえるような環境づくりを進め、最終的には一つのブームにつなげたいと考えています。
基礎研究の分野では、私の所属する学部が理学部であることを理解し、自然界に存在する普遍的な原理・原則の理解に努めたいと思っています。基礎研究の分野でしっかりとした成果を上げることは、その先にある応用研究における我々の取り組みに対する科学的な信頼性を高めることにもつながると考えています。今期から予算も確保できたので、基礎科学としてインパクトのある研究に注力して取り組んでいきたいと思っています。
竹内 春樹
たけうち・はるき
東京大学 大学院理学系研究科 教授
2004年 東京大学 理学部卒業 2010年 東京大学 大学院理学系研究科 博士課程修了、博士(理学)。同年 東京大学大学院 理学系研究科 特任助教。福井大学 医学部 特命准教授を経て、2018年 東京大学大学院 薬学部研究科 特任准教授に就任。2022年9月より現職。