脳の海馬は、経験した出来事についての記憶である「エピソード記憶」の形成を担っているが、この海馬がどのような神経回路メカニズムによってエピソード記憶を形成しているのかは未だ解明されていない。こうしたなか、脳の海馬を中心に、エピソード記憶などの認知機能の神経メカニズムをネットワークレベルで解明するべく研究しているのが、理化学研究所脳科学総合研究センター システム神経生理学研究チームの藤澤茂義チームリーダーだ。今回は藤澤チームリーダーに、記憶研究の最前線について伺った。
人間のエピソード記憶を解明
Q:まずは、研究の概要を教えてください。
研究対象の中心となるのは、「エピソード記憶」と呼ばれるものです。これは主にいつ、どこで、何をしたか、という自分の経験についての記憶で、小さい頃の思い出や、昨日何をしたか、など僕たちがいわゆる記憶と呼んでいるものがエピソード記憶に相当します。
このエピソード記憶は、カナダの心理学者タルヴィングによって提案したもので、「心の時間旅行」をすることできる能力であると定義されています。たとえば自分が昨日何をしたのかを思い出すとき、自分の心を昨日に巻き戻して、あの人とあんなことを話したな、などと情景を思い浮かべることができるとおもいます。
脳科学の中で記憶と定義されるもの中には、エピソード記憶とは異なる種類のものもあります。その中には、「恐怖記憶」というものもあります。例えば、蛇に噛まれたあと、蛇を見ただけで震えが起きるようになってしまう。噛まれた時のことを細かく思い出す前に、蛇を見ただけで怖くて震えてしまう。これが恐怖記憶です。
また、「手続き記憶」というものもあります。これは自転車の乗り方のようなものを指します。自転車は、子供の頃に乗り方を覚えてしまえば、しばらく乗らなかったとしても乗れなくなることはありません。これも、どういうふうに自転車乗るのかという細かなことは分からないけれど、乗れてしまいます。
それに対して、エピソード記憶は、具体的に自分がいつ、どこで、何をしていたかを言葉に示すことができるような記憶であり、これはかなり高度な脳機能といえます。
恐怖記憶や手続き記憶などは鳥や魚にも存在する記憶ですが、エピソード記憶は人間の特異的なものであると考えられています。私たちは、神経生理学的な手法を用いてエピソード記憶の神経メカニズムを明らかにすることを目標として研究を行っています。
Q:実際にメカニズムを解明していくための手法とは、どういったものでしょうか。
実際には、ラットなどの齧歯類動物(ネズミ)を用いて、エピソード記憶に必須であると考えられている「海馬」という脳部位の神経活動を観測することで研究を進めています。
ところで、エピソード記憶は、人間であれば言葉によって記憶を表現することができるため、正しく記憶できているかどうかなどを比較的簡単に確認することができます。しかし、動物では実際に心の時間旅行を行っているかどうかを客観的に調べることができないので、エピソード記憶そのものを調べることは難しいのです。そのため、エピソード記憶の重要な要素であると考えられている「いつ」「どこで」「何をしたか」という情報が、神経細胞のどこに格納されていて、それがどう繋がってエピソード記憶が形成されていくのかということに焦点をあててアプローチしています。
Q:計測においてはどういった手法をとるのでしょうか。
神経細胞は、電気信号を介して情報のやり取りを行なっています。私たちは、数十個の電極が精密に配置されたシリコンプローブと呼ばれる記録デバイスをネズミの海馬に埋め込んで、その神経細胞の活動を直接記録するという実験手法を使っています。ネズミの行っている行動を見ながら、実際の電気信号をリアルタイムで読み出すというわけです。
それによって、学習をしているときや何か思い出しているときに、海馬の神経細胞がどのように活性化していて、記憶学習においてどのような機能を果たしているのかを明らかにすることができます。
Q:研究のなかで、特に独自性が高いのはどういった部分でしょうか。
ネズミには高い空間認知機能があります。例えばネズミも巣穴から出て歩き回っても、迷うことなく元の巣穴に戻ることができます。このため、ネズミの脳の中には自分のいる環境の地図、すなわち「空間認識地図」が存在するのではないかと考えられてきました。これを初めて神経生理学的に示したのが1970年代のオキーフ博士の研究で、彼はネズミの海馬には、空間環境においてそれぞれの場所を記憶する神経細胞である「場所細胞」が存在していることを明らかにしました。
そこで知りたいのは、場所細胞がどれぐらいエピソード記憶と関係しているのかとというところです。場所細胞は自分の場所だけを指しているような、自分を中心とした場所だけを記憶しているのか、それとも、場所細胞はもっと一般的な情報で、例えば自分だけではなく、物体や他の動物などの場所の記憶にも利用されているのか。
私たちの研究では、以上の疑問に答えるために、独自に開発した行動課題を用いることで研究してきました。具体的には、あるネズミが、別のネズミ(他者)を観察しているときの海馬の神経細胞の活動を大規模に計測する実験を行いました。すると、海馬の場所細胞は、自分の位置の情報のみならず、他者の位置情報をも表現していることが明かになったのです。つまり、場所細胞はかなり普遍的な位置情報を司っていることが分かってきました。
このように、海馬が過去の経験においてどのような情報を記憶しているかについて、「いつ」「どこで」「誰が、何を」といった情報の要素を特定できるような行動実験を用いながら記憶の神経メカニズムを明らかにする実験を行っているところが、私たちの研究の独自性の高い部分であると思います。
Q:現在はどのような研究体制になっていますか。
私たちの研究では、主に行動実験、神経生理学実験、データ解析の3つのプロセスが必要になります。研究室としては、ネズミが行動実験に集中できる個室型の実験室が複数あり、並行して行動実験を進められるようになっています。また神経生理学実験においても、より多くの神経細胞が同時に観測できるよう、記録装置を整備しています。また効率よくデータ解析を行える計算機サーバー環境も整えています。
実際には、具体的テーマを決めて最終的なデータ解析に至るまで、数年はかかります。動物の行動実験から入るので、動物に行動してもらえるような実験システムやプロトコールをつくらなければなりません。例えば、先ほど説明させていただいた他者観察実験については、普通に動物を同じ空間に2匹入れただけではお互いに好き勝手なことをするだけですので、他者を観察するように学習させなければなりません。動物の思考に沿った行動実験を開発することはそれなりに時間がかかってしまいます。
私が理研に入ったのが2012年ですので、現在7年目になります。これまでにいくつかのプロジェクトをやり終えて研究の進め方のノウハウがだいぶたまってきたので、今後は重要な研究をより強力に進められるよう頑張っていきたいと思っています。
記憶メカニズムを正確に解明できる実験系を組み立てる
Q:今後の課題としてどんなものがありますか。
私の研究分野である神経生理学についていうと、一つ目の課題として技術的な課題があります。例えば人間の脳の中には100億個の神経細胞があるといわれています。その中で、観察できる神経細胞の数が多ければ多いほど、取れる情報が多くなり、分かることも多くなってきます。もちろん脳科学としては、すべての活動がとれるということが目標だと思います。しかし、現在私たちが観察することのできる神経細胞は100~1000ぐらいの桁であり、すべての神経細胞の活動を見ることはできていません。おそらく数千、数万までは今後の技術の進展で計測することができるようになるとは思うのですが、その先となるとどこかで技術的な限界があるかもしれません。
もう一つの課題は、倫理的な点だと思います。電極を脳に配置して神経細胞の活動を記録する技術は、人間にも適用することができます。例えば、ALSなどの難病で体が動かなくなった患者さんに、脳に電極を配置して神経活動を記録することによって患者さんの思考をできる限り読み取ることを目標とした研究などがなされています。
しかし、電極を使った研究だと、電極を実際に脳の中に埋入なければならないので、それが本当に安全なのかなど倫理的な課題もあるといえます。電極は生体にとって異物なので、配置した部分の周りの組織が傷んでしまう可能性もあります。患者に対して、脳を全く傷めることなくできるだけ多くの神経細胞の活動を取ることのできる技術が開発できたら、これは本当に素晴らしいことだと思います。
Q:この分野を志す学生にはどんな姿勢が必要でしょうか。
物事を面白がるというか、新しいことに興味を持つ、好奇心を持ち続けることが重要かと思いますね。
脳科学は、数学や物理学などの伝統的な学問と比べると新しい分野です。いまのところほとんどの大学には脳科学を専門にする学部はありませんので、脳科学者の中には理学部出身の人もいれば医学部出身の人もいますし、心理学を勉強してきた文学部出身の人もいます。
自らの強みを生かしながら、かつ様々な分野の学問に取り組む姿勢が大事だと思います。遺伝学とか工学的な技術がどんどん進化していく分野でもあるので、自分の専門的な知識に加え、幅広い分野の目、ゼネラリストとしての目が必要とされるのではないかと思います。
学ぶ環境についていえば、生物学や脳科学の分野では、もちろん日本にも一つ一つの研究室としては素晴らしい研究室はたくさんあります。ただ、この分野で研究の層が厚いのはやはりアメリカですね。一流の大学では優秀な研究室が数多く集まっていますし、またニューヨークやボストンなどではそういった一流の大学がまとまって存在したりしています。それを踏まえると、留学という経験は非常に大きな刺激をもたらすことだと思います。
Q:企業に期待することはありますか。
私の研究はどちらかというとかなり基礎寄りなので、現時点ではそこまで企業との連携などは行っていないのですが、今後もし私たちの研究成果が産業的・工業的応用として還元することができれば、それほど嬉しいことはないですね。
企業に期待することというと、今すぐ芽が出なくても将来的なシードとなるようなことにどんどん目を向けていってほしいと思います。AI のディープラーニングなども、元々は視覚領域の神経細胞のあの神経情報処理モデルをベースにブラッシュアップされていき、人工知能になったというわけです。こういった記憶のメカニズムについても、やはりこの視覚野とは全く別の、この情報の処理システムがあるはずです。そういったものをベースに、どんどん新しい機械学習 AI のアイデアとかができてきたらいいなと考えています。
Q:最後に、今後の目標について教えてください。
「いつ・どこで・何を」という記憶のメカニズムを、正確に解明できるような実験系を組み立てて、実験を行なっていきたいですね。エピソード記憶という最も高次な脳機能にたいして、そのメカニズムに迫れるような研究を進めていきたいと思っています。(了)
藤澤 茂義
ふじさわ・しげよし
理化学研究所脳神経科学研究センター 時空間認知神経生理学研究チーム チームリーダー。
2000年、京都大学工学部物理工学科卒業。2002年、京都大学大学院工学系研究科精密工学専攻修了。2005年、東京大学薬学系研究科生命薬学専攻。薬学博士。
2005年、ラトガース大学 分子行動神経科学研究センターに勤務後、2012年ニューヨーク大学 神経科学研究センターにて研究をおこなう。
2012年、理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー。
2018年より現職。