「発がん」はよく耳にする言葉であるが、実はがんを研究する腫瘍発生学においては、がん細胞が産出されたときに体内で何が起きているかなど、未解明の部分が数多くある。そうしたがん研究において、がん細胞が誕生したときの生体内反応を中心に発がん研究に取り組んでいるのが、東京理科大学 生命医科学研究所 発生及び老化研究部門の昆 俊亮講師だ。発がんに抗うために生体が備えている「細胞競合」という抗腫瘍機能の概要と今後の研究展開について、昆氏に話を伺った。
がん変異細胞を認識・排除する生体メカニズムを研究
Q:まずは、研究の概要について教えてください。
一般的に、人の「がん」は身体の表面や管腔臓器などを覆っているような「上皮細胞」から発生してくることがほとんどです。がんは遺伝子疾患ですから、何かしらの遺伝子が変異を起こしてがん化を誘起するわけです。
近年はシークエンス技術の著しい発達により、がんゲノムの情報もかなり充実してきています。それに加えて、がんが発生する分子論的なメカニズムもわかってきました。人の各がん腫において、原因となる遺伝子変異が明らかになり、それによって細胞の中でどういう変化が生じているかがかなり分かってきた、という状況にあるわけです。
上皮細胞はお互いが密に接着しており、レイヤー構造を形成しています。上皮層にがん変異化した細胞が少数産生された状態を模倣し、その時に一体何が起こるのか調べる。当研究室ではこれを主な研究テーマとして行なってきました。
言い換えれば、平和的な細胞社会にがん変異を持った細胞が急に出現した時(=周りが正常である時)に、一体何が起こるのかということです。
さて、近年研究を進めていくうちにわかってきたのが、「細胞競合」という現象です。細胞競合とは、性質の異なる細胞が一緒にいたときに、片方は生き残って、もう片方は淘汰される現象です。
上皮層にがん変異細胞が産生された時、その周りには正常な細胞があります。もともとはお互い同種の仲間だったものですが、正常細胞ががん変異細胞を「こいつはおかしいぞ」と認識して、細胞競合によって排除されます。 偶発的に産生されたがん変異細胞を周りの細胞が認識する仕組みと、排除する仕組みがあるわけです。
細胞競合の歴史は古く、現象そのものは1975年にショウジョウバエを使った実験で発見されていました。
その後2017年になって、ショウジョウバエではなく哺乳生物でも細胞競合によってがん変異細胞が排除されていると示すことができました。これは大きなトピックだったと思います。
このように元々ショウジョウバエの発生学で生まれた学問だったのですが、そこからなかなか研究が進んでいませんでした。世界的にも細胞競合がすごく面白くなってきたのは2000年代近くになってからです。
私が以前所属していた北海道大学の藤田恭之教授は、ロンドンで研究室を主宰されていた時に、哺乳類の培養細胞を使って世界で初めて細胞競合によってがん変異細胞が排除されることを報告しました。それから、藤田先生とともに哺乳類個体でも細胞競合の現象を実証できたことはこの分野にとって大きな一歩だと思っています。
ただし現時点では、分子論的なメカニズムはまだまだ解明されておりません。。私たちが本来持っている防御機能「だろう」という域をこれから超えていかなければなりません。より詳しく仕組みを明らかにするために、世界中で精力的に研究が進んでいる状況です。
Q:研究アプローチにはどういった独自性があるのでしょうか。
従来のがん研究の主たるアプローチ方法は、最終的に悪性化した腫瘍組織のがん細胞と正常な細胞との違いを比較することで、それによってがん本態を理解しようとしていました。つまり、最後の悪玉の細胞ばかり注目していたわけです。
しかし、がんは発生から進展までにものすごく長いプロセスがあります。
最初のイベントは、がん変異を有する細胞ができ、組織内で拡張していき、最終的に浸潤転移していきます。最初のがん変異を有する細胞ができた時に、何が起きているかということがよくわかっておらず、あまり着目もされてこなかったわけです。
人間は、例えば細胞分裂に伴うDNAの複製エラーや、放射線などの環境要因など、がんのリスクファクターが常にあるわけです。これは生命活動を営むうえで仕方のないことで、一日の中で数千ほどのがん変異細胞ができているという説もあるほどです。自然の理でそういう細胞が出てくるのはしょうがないということですね。
そのため、何かしらの方法で、がん変異細胞を排除しなければなりません。細胞競合はがん変異細胞の一番近くにいる細胞が、がん細胞を認識して駆逐するわけですから、その意味では理想的といえるかもしれません。
特定の細胞だけを採取する技術確立が急務
Q:現研究にいたるまでにはどういった経緯がありましたか。
大学院は東北大学の加齢医学研究所の、佐竹正延先生(現仙台赤門短期大学学長)のところに進学し、「細胞内小胞輸送」という細胞生物学の研究をしていました。
真核細胞の中には細胞内小器官というものが配置されていて、各小器官の間を分子が輸送されていきます。輸送される分子は小胞という小さな構造体に積載されて運ばれるのですが、その小胞の形成を制御する分子の機能解析という内容の研究でした。
細胞内小胞輸送は基本的な生命現象の一つですので、おかしくなってしまうと身体は様々な疾患を引き起こしてしまいます。私は、小胞形成を制御する因子の機能を不全にさせ、細胞内小胞輸送をおかしくさせた時にどうなるかを個体レベルで研究し、それによって発がんに至るということを明らかにしました。つまり、小胞形成の制御分子をwindowとして、細胞内小胞輸送と発がんとの邂逅ということまで昇華することができました。その時には、自分の中で研究の骨子として発がんが成立していたわけです。
がん研究について自分なりに追い求めていくうちに、がん細胞が誕生した時には一体何が起こっているのかを観察したいと思いはじめました。
その後は、最終的に東北大学で助教までやらせてもらって、同じく助教として2013年に北海道大学の遺伝子病研究所の藤田恭之教授に師事しました。
藤田教授はロンドンで研究室を主催されていた方で、哺乳生物の培養細胞を使って、細胞競合が起こりがん変異細胞が排除されることを2009年に示されました。ただ、その現象が本当に身体の中で同じように起きているかは証明されていませんでした。
発がん研究において自分の見ている事象が個体でも起きているかどうかは医学的に重要なことですので、当時北大の研究室では細胞競合についてマウスモデルが必要だという認識で、プロジェクトがスタートしました。 私が2013年に助教として着任した時は、幸運にも自分で進めたいと思っていた研究でしたので、マウスモデルの開発を引き継がせていただきました。
そして、マウスの腸管で、がん変異細胞を少数産生させたときに、細胞競合によってがん変異細胞が排除されることを証明することができました。最初にその様子を顕微鏡で観察したときにとても興奮したのは今でも覚えています。自分の予想以上に排除されていたので。これはすごいなと。
北大では2018年まで5年間過ごし、2018年の春からは東京理科大で独立させてもらうことになりました。
現在はこのマウスモデルを使った研究をさらに深化させ、遺伝子変異の蓄積によって細胞競合の機能がどのように変化するのかを研究しています。
例えば、細胞競合によってがん変異細胞が100%排除されていたら、世の中にがんという病気は存在しないことになります。しかし、実際にがんで苦しんでいる患者さんはたくさんいます。もちろん様々な原因があると思いますが、その中の一つとして細胞競合の機能が低下することが発がん率の増加に関係していることが考えられます。
一般的にがんは一つの遺伝子変異で起こるものではありません。複数の遺伝子の変異が蓄積することによって、発がんに至るのです。ですから、遺伝子変異が蓄積する過程で細胞競合の機能も低下しているのではないかと考えたわけです。
現段階としては、マウスモデルに遺伝子変異の負荷を蓄積させた時に何が起こるのかを観察しています。
実際に細胞競合によるがん変異細胞の排除率は変わってきていて、本来排除されるべき変異細胞はそのまま残ってしまい、さらに悪性化して組織内に浸潤してしまう。ここまでがわかりつつあることです。
私たちが研究している細胞競合は、がん変異細胞が排除される現象を見ていたわけですが、細胞競合の機能がおかしくなると単一細胞レベルで浸潤性のがん細胞ができてしまいます。つまり現在は、がん細胞が誕生する瞬間を見ることができるようになりました。
そしてこれは、自分がやりたかった研究でもあります。元々私はがん細胞が誕生した瞬間に何が起きているのかということにすごく興味があって、それを細胞競合という現象を介して見られるような状況になったといえます。
今後は、がん細胞が誕生した時に身体の中でどういった反応が起きているのかを研究していきたいと思っています。
私は独立して間もないので、高杉晋作が功山寺で決起したように、スケールはだいぶ小さくなりますが、自分も今まさに何か新しいことを始めようと決起したいなと思ってます。自分がこれまでに培ってきた、信念とか感性とかを大事にして、新しいことにチャレンジしていきたいなと思っています。
Q:研究の課題としてどんなものがありますか。
身体の中でがん細胞が誕生した時に、その細胞がどのような振る舞いをするのかを観察したいと考えています。
観察するところまでなら、さほど難しくはありません。 しかし、がん細胞が誕生した時にがん細胞もしくは周辺の正常細胞を採ってきて、細胞の中の性状を詳しく調べたいとなると、現状の技術では難しいといえます。
最近では光操作技術などを駆使して、そういった課題を解決する糸口が見つかりつつあります。しかしながら、まだまだ容易な実験ではありません。腫瘍組織を構成するがん細胞は遺伝的バックグラウンドが全く異なるので、それぞれのがん細胞の振る舞いは全然違います。
あるがん細胞を調べたいと思った時に、それだけを抽出できるような技術が発達すれば、今後のがん研究のブレークスルーになるのではないかなと思います。
がん研究も歴史的に俯瞰すれば最初は組織からはじまって、組織の中の腫瘍部位、そして今は単一のがん細胞のレベルまでどんどん研究対象がナローダウンしてきています。やはり狙い打ちというか、ある細胞だけを採ってくるという技術の確立が今後の流れを変えていくのではないかと思っています。
Q:今後の研究を志す学生に伝えたいことは何ですか。
私自身が基礎研究を志した経緯からお話しすると、東北大学の修士をはじめた頃にさかのぼります。最初は細胞内小胞輸送の研究をしていました。実はそこの研究室は免疫学を大きなテーマとしていたので、自分がやっていたセルバイオロジーは、正直なところ傍流だったわけです。そのため、ある意味自由にやらせてもらえる環境にあったと感じています。
自分がこれだ!と思った研究テーマをはじめたわけですが、振り返るとしょうもないテーマだなと思うくらいのレベルです。基礎研究の醍醐味は、自分が予想したものと全く違う結果になり、それが研究をものすごく飛躍的に展開したということをよく耳にします。
ただ、私の場合は全く逆のことが起こったといえますね。むしろ自分が思っていたことと結果がほとんどずれていなかったのですが、それがすごく面白くて夢中になっていきました。なぜなら、当時そのテーマについては、世界で自分しかおそらくやってなくて、自分が一番詳しいという矜持みたいなものが根底にあったからだと思います。
その後のテーマでは予想とはまったく違う結果になったので、少しずつ紐解いていくことの方が自分としてはものすごくしんどいことでした。やはり夢中になれたことは大きな経験だったと思います。
自分の経験から学生に伝えたいのは、例えば大学や大学院は自分が望んで、自分が進みたいと思ってくるべきところです。授業料も必要ですし、義務教育ではありません。ですから、本来は楽しくあるべきだと思います。
私も様々な学生を見てきましたが、みんながみんな楽しそうというわけではありませんでした。そういった学生は、ほとんどが言われたことを受動的にこなすような方が多く、いつも退屈そうにしている印象がありました。そこはちょっと無理矢理にでも自分の気持ちを前向きにすることで、日々の研究生活も少しはたのしくなるんじゃないかなと思います。研究のスイッチを入れるという感じです。
友達で、最近会社を辞めて39歳で医学部に入り直した人がいるのですが、「人生は一度しかないから後悔したくない」といっています。とても説得力あるんです。
これが学生なら、一度しかない研究生活です。日々惰性でノリに乗った20代を過ごすのは、すごく勿体無いと思います。海外を旅していた方がよほど成長できるはずです。
Q:社会実装をめざして考えていることはありますか。
製薬会社の方との共同開発をしたいと思っています。将来的には、私たちが発見した分子を標的とした抗がん剤を開発したいという雄志はもちろんもちあわせています。
具体的にはがん細胞ができた時の生体内反応を観察して、それをつかさどるような分子を見つける。そしてその分子をターゲットにするような、従来とは全く違う抗がん戦略を構築したいです。
ただ、私がいるような小さな研究室だと、アカデミックができることはすごく限られてしまう。私たちができるところは正直、創薬のシーズを創出する探索研究までです。
創薬をするにあたって、開発研究や臨床研究には製薬会社さんやお医者さんなどの専門家とスクラムを組んでいく必要があります。しかし、なかなかそういった方々とインタラクションする機会がほとんどありません。
北大時代にもよく言われましたが、自分たちが待っているだけでは何も起こりません。基本的に出不精な人が多い業界です。今後はこちらから積極的にアピールしていく、そんな姿勢が求められていくでしょう。(了)
昆 俊亮
こん・しゅんすけ
2003年、東北大学工学部化学バイオ科 卒業。2005年、東北大学生命科学研究科(修士課程) 修了、2008年に同 博士課程 修了。
2008年より東北大学・加齢医学研究所・博士研究員を務めたのち、2009年4月~2013年6月 東北大学 加齢医学研究所 助教に着任。
2013年7月からは北海道大学にうつり、遺伝子病制御研究所 助教を務めたのち、2017年より同大学 遺伝子病制御研究所 講師となる。
2018年より現職。