人が歩くメカニズムは、単純そうにみえて非常に奥が深い。歩くメカニズムを解明することで、臨床医学やロボット工学への応用が可能になるとされ、新たなアプローチでの歩行研究に期待が寄せられている。こうしたなか、「歩く」の起源にせまるべく、ヒトおよび霊長類の運動機能と身体構造の進化メカニズムを機械工学的視点から研究しているのが、慶應義塾大学理工学部機械工学科の荻原直道教授だ。
人間の歩行の仕組みを理解することで、からだの動きに関わる様々な分野のベースになると考える荻原教授に、ニホンザルの二足歩行研究を中心とした現在の研究手法について伺った。
機械工学をベースに、二足歩行のメカニズムと進化を探る
Q:まずは、歩行研究の社会的なニーズについて教えてください。
もともと機械工学科の出身で、航空宇宙工学の勉強をしたいと思って大学に入りました。しかし大学で学ぶうちに「人間ほどすごい機械はない」と思うようになりました。当時、人間と同じようなロボット、特に二足で歩くロボットをつくることは極めて難しいことでした。しかし、人間は本来不安定な二足歩行で、坂道でもでこぼこ道でもスタスタ歩くことができます。
機械工学という学問は長い歴史がある体系化された学問で、特に航空宇宙工学は比較的確立された技術を基礎としているといわれています。何か間違いがあったら大変ですから、しっかりと確立された技術に立脚してシステムが設計され、人類は宇宙まで到達するに至りました。
しかし、人間のように環境変化に柔軟に適応する情報処理能力を持った機械をつくるとなると、既存の機械工学的アプローチではたちどころに上手くいかなくなってしまうのです。
「人間と同じような機械をつくるためには、人間の動作原理をきちんと理解していなければならない」と考えるようになり、歩行の研究にたどり着きました。人間の歩行の仕組みをきちんと理解しておくことは、機械工学のみならず、からだの動きに関わる様々な分野のベースになると考えています。
ただし、私自身はかなり基礎的な部分の研究をしているので、今すぐに社会的なニーズをイメージするのはちょっと難しいかもしれません。ヒトが歩くということは、地球上で起こる物理現象です。したがって、そのメカニズムを明らかにするには、その物理を考える必要があります。身体には、まず重力が作用します。この身体を下向きに動かそうとする力に対して、足によって地面からの反力を適切に作り出すことによって、我々は二足で立ち、歩くことができています。これが一番単純な歩行の仕組みです。しかし、ここで難しいのは、地面との力のやり取りをどうつくっていくかです。
床からの反力を適切に作用させることができれば、我々は重心を転ぶことなく移動させることができますし、逆にそれができなければ、重心が落ちて転んでしまいます。つまり、歩くために必要なことは、地面から足に作用する力を適切に制御することです。我々人間には簡単にできることですが、これをロボットにやらせようとすると膨大な計算が必要になるわけです。また、ロボットは足が剛体でできています。そのため足を地面にそっと着地させて歩くわけです。
ロボットの場合「どのように関節を動かすか」という運動指令は、人間がプログラムして作っています。しかし、ヒトの場合はこれを神経が行なっています。ヒトが歩くとき、筋に指令を送っているのは、脳を含む神経回路です。また、身体にはたくさんのセンサーがありますが、そのセンサーからの感覚信号が神経系に戻ってきて、環境や身体の状況にあわせて、うまく歩くことができているわけです。当初はこの神経系の情報処理の仕組みに、興味を持ちました。
神経系の中で何が起きているのかを知ることは、今でも難しいといえますが、当時行なっていたのは、歩行を生み出す神経系の数理モデルをつくることでした。つまり歩行に関わる神経の研究の情報を参考に、その数学モデルを構築し、それに基づいてコンピューターの中でヒトの物理モデルを歩かせる研究をスタートさせました。
最初のうちは、歩行の本質やはり神経制御にあると思っていました。しかし、研究していくうちに、神経系はもちろん大事だけれども、さらに大事なのは身体のほうだと考えるようになってきました。つまり、人間の肉体そのものが二足歩行に適しているので、我々はうまく二足で歩けるわけです。
例えば、猫に鉛筆を持てといっても持つことはできません。鉛筆を持てるような手の構造ではないからです。それと同じように、ヒトの身体の構造そのものに二足歩行をうまく行うための仕組みがたくさん存在しているから、ヒトは二足で歩けるわけです。
一方で、ロボットはこういったことをほとんど無視して作られています。このあたりに本質があるのかもしれないと考え出した頃、だんだんと機械工学から人類進化の研究にシフトしてきました。ただし、これは私が意図して進んでいったことではなく、巡り合わせといいますか、ちょうど博士課程が終わりに近づいた頃に、京都大学の自然人類学研究室が助手を公募していて、恩師の勧めもあり、人類進化を勉強する機会をいただいたということが大きなきっかけになりました。そしてニホンザルの歩行研究と出会い、ヒトとサルを対比することで、ヒトの二足歩行の特徴や身体の構造の仕組みが、少しずつわかってきたというわけです。
機械工学科にいて、ヒトの歩行シミュレーションをするといっても、そもそもヒトしか見ていないわけですから、ヒトの二足歩行の特徴や特異性なんて、考えることも見えてくることもありません。しかしサルを見ると、骨のかたちや筋の配置、歩き方などがヒトとは違っています。このあたりに、ヒトの構造の妙や歩き方の合理性が理解できてくるわけです。様々な意味でサルをしっかりと分析して、ヒトと対比して、進化の中にヒトの二足歩行を位置づけるということがすごく面白いなと感じています。これがサルの歩行を分析するに至った理由です。
Q:実際の研究方法はどのような方式をとっているのでしょうか。
基本的には、ニホンザルがいる場所に機材を持って行って計測をしています。二足歩行の訓練を受けた、猿まわしのサルの二足歩行を分析させていただいています。東京なら日光あたりをイメージする人が多いと思いますが、私が研究を始めたのは京都にいた頃でしたので、熊本まで行っています。それから、京都大学霊長類研究所にいるニホンザルも分析しています。総じて、野生ではなく、訓練されたサルをターゲットにしています。
なぜニホンザルなのかといいますと、生物学的にはチンパンジーのほうがヒトに近いですが、チンパンジーは木の上での生活にその身体が適応していることもあり、腕が長く上半身も大きいです。また地上ではナックルウォーキングという特殊な四足歩行をします。
当たり前ですが、チンパンジーはチンパンジーで独自の進化を遂げて今に至っているわけです。なので、遺伝的にヒトと近いからというだけでヒトの祖先のモデルとして最も適していると考えるのは必ずしも正しくありません。
一方、ニホンザルは、どちらかと言えば典型的なサルで、解剖学的に見てもあまり特殊化していません。ニホンザルは普段から二足歩行をするわけではありませんが、必要な時は二足で歩くこともできます。
ニホンザルができる最大能力の二足歩行が、猿まわしのサルの二足歩行です。ニホンザルが、ヒトの祖先のモデルとしてより適しているわけではありませんが、そういったサルが二足で歩く時はどうなるかを明らかにすることが、二足歩行の進化を考える上で重要な示唆を与えてくれると考えています。
一方、研究室には身体構造を計測する装置がたくさんありまして、例えば病院にあるような超音波診断装置やCT装置があります。こうした装置でヒトや動物の解剖情報を定量化して、それをベースにシミュレーションモデルをつくり、力学的な解析をします。一回実験データを取ると、解析にはそれなりの時間がかかりますので、一年に何度も計測に行くというようなことはありません。
Q:こうした研究は独自のものなのでしょうか。
元々自分一人で始めた研究ではなく、京都大学のときの上司がサルの歩行の研究をしていました。京都大学には何十年も前からサルを歩かせる研究についての歴史があり、その流れの中に私が入ったような感じです。しかし、たくさんの人が研究している分野というわけではなく、研究者は多くはありません。
世界的に見ると、フランスがヒヒを対象に二足歩行の研究をしています。最近は難しくなっていますが、アメリカがチンパンジーを対象に二足歩行の研究をしています。じつは日本は、先進国の中で霊長類が野生に住んでいる唯一の国です。アメリカやフランスに野生の霊長類は住んでいません。日本にはニホンザルがいますから、ニホンザルを対象に二足歩行の進化研究を展開し、海外のグループと勝負をしているわけです。
二足歩行の進化を明らかにするために、粘り強くサルのデータを計測する
Q:現在、課題として感じていらっしゃる点はありますか?
やはりサルには言葉が通じませんので、こちらが思っているようには、なかなかデータを取らせてくれないです。ヒトを対象に同じ時間をかけて計測したら、ものすごく多くのデータが取れるのに、ということもあります。
先ほどもお話ししたとおり、歩行は身体と床面との間の力作用が大事ですから、床に作用する力を測るための実験を行ないます。床反力計という装置を、歩いている途中に足で踏んでもらい、床から身体に作用する力を計測しますが、例えば対象がヒトであれば「床反力計を踏んでください」というだけで理解してもらえます。しかしサルには、そのようなお願いはできませんので、その上を何度も行ったり来たりして、たまたま上手く踏んでくれたところを取り出してまとめていくわけです。やはり動物からデータを取ることには、時間と根気が必要になってきます。
色々と試してみた結果、ダメだったこともあります。以前、サルが歩いている時にどのくらいのエネルギーを消費しているかを調べることを試みました。ヒトの場合は呼気マスクをつけてもらって酸素の消費量と二酸化炭素の排出量を計測するので、それと同じような計測を、サルを対象にやろうと思ったのです。大人のニホンザルは10kgほどの体重ですので、子供用の呼気マスクで対応できるかな、くらいに考えていました。
しかしヒトとサルでは顎の部分の形が違うので、ヒト用のマスクがそのままサルにフィットしません。また何よりもサルは手が器用なので、呼気マスクを自分で外してしまいます。結局、その実験は諦めることになってしまいました。
モーションキャプチャを用いて、サルの歩行中の身体運動のデータが取れるようになったのも、実は最近の話です。サルはマーカーを身体に貼りつけられるのを嫌がるので、それまでは撮影したビデオを1コマ毎に目でみて関節の座標を計測し、サルの動きを定量化していました。しかし、何度もトライしていたら気にしなくなって、マーカーをつけさせてくれるようになったのです。X線透視カメラで運動分析をやろうと考えたこともありましたが、これは装置が簡単には手に入らないのと、X線がサルの身体にとって有害なので、実現しませんでした。
上手くいかないことのほうが多いですが、こうして苦労して集めたデータは、世界的にも重要なデータとして注目されています。先ほどお話ししたアメリカのチームが、チンパンジーのデータと比較したいということで、こちらのデータを送ったこともありました。
Q:研究室の学生はどのような研究をしていますか?
学部生は毎年5人前後、修士学生もだいたい同じ程度の人数がいます。修士学生の数は年によってバラつきがあります。機械工学科ですので、サルの研究を志望する学生が必ずしも毎年いるわけではありません。サルの歩行研究をやっている学生は、現在は一人もいませんが、ヒトの歩行に関する研究に取り組んでいる学生が数名います。
例えば、なぜ高齢者は歩行中に転倒するリスクが高いのかというテーマに取り組んでいる学生や、靴にバイブレーション機能を付けて、歩行中に足裏に振動刺激を与えてみる実験を行っている学生がいます。歩いている時に刺激を与えると足裏から入ってくる感覚情報の感度が向上して、身体が安定化し、結果として転倒予防につながるのではないかという作業仮説を立て、その検証に取り組んでいるところです。
また、歩行とは直接関係ありませんが、ヒトの外乱に対する身体応答や、手で物体を把握する仕組みの解析など、ヒトの動作原理の解明を目指した研究を展開しています。
高齢者の歩行研究となると、研究がそのまま就職にもつながりそうですが、他の分野と同じように、修士まで行なっていた研究の内容が、直接就職とつながるケースはあまりないように思います。機械工学科ですから、初めからエンジンの研究がしたくて大学に入って、初志貫徹で自動車会社に就職する学生ももちろんいると思いますが、私の研究室では、必ずしもそうではないようで、比較的進路は柔軟です。
例えば今年の卒業生では、修士まで歩行の研究を続けていても、就職先は銀行という学生もいます。ヒトの仕組みを、機械工学をベースに明らかにしようとするファンダメンタルな研究をやっていますので、それをベースとして社会で貢献していくことができていると期待しています。人間が関係しない分野はありませんから、その意味ではどこの会社に行ったとしても研究室での経験が生きてくるのではないかと考えています。
Q:企業に対して期待することはありますか?
企業に期待するのは、大学に対して議論の門戸を広く開けておいて欲しいということです。企業はどうしてもクローズドな部分が多くなりがちですが、もう少しオープンに「こんなことができたら面白いよね」というような議論を、企業と大学の間で自由闊達におおらかにできると良いと思っています。
いま社会全体を見わたしても、面白いブレイクスルーがあまり生まれていない気がするので、少し遊び心を入れることが重要だと思います。そのために企業と大学とが協力し、遊び心を生かした真に「面白い」アイデアを育み、役に立たなくても良いからその実現に向けておおらかに挑戦していくことが必要ではないでしょうか。(了)
荻原 直道
おぎはら・なおみち
慶應義塾大学理工学部機械工学科 教授
1971年東京生まれ。1995年慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業。1997年同大学大学院理工学研究科修士課程(生体医工学専攻)修了。1999年日本学術振興会特別研究員。2000年5月同大学院理工学研究科後期博士課程(生体医工学専攻)単位取得退学。2000年9月博士(工学)(慶應義塾大学)。
2000年6月京都大学大学院理学研究科動物学教室助手。2007年4月同助教。2009年4月慶應義塾大学理工学部機械工学科専任講師、2011年4月同准教授、2016年4月より現職。