「嗅覚」は人間にとっても動物にとっても必要不可欠なものであるが、嗅覚を理解するためには、匂いやフェロモンがどのように感知され、それがどのように脳に伝わり、最終的なアウトプットである行動や生理的な変化、情動の変化が起こるかといった一連の流れをすべて解明する必要がある。
従来の研究では、神経生理学や分子生物学など、特定の分野に限った研究が主流であったため全貌の解明が難しいといわれていた。こうしたなか、匂いやフェロモンを情報物質=化学シグナルととらえ、有機化学の視点から新たなアプローチを実現しているのが、東京大学大学院 農学生命科学研究科の東原教授だ。今回は嗅覚研究のアプローチ手法と、人間社会と香りとの向き合い方について伺った。
化学シグナルの受容という観点から、嗅覚を研究
Q:研究の概要からお聞かせください。
五感のひとつ、嗅覚を研究しています。嗅覚はもともと、動物にとっては天敵から逃げたり獲物を見つけたり、あるいは異性を認識して交尾して子孫を残すために使うもので、生活してサバイブして子孫を残して種を維持するという根本的な生命の維持にかかわっています。
一方、人間社会での嗅覚は、本来動物の持つ嗅覚の役割は退化しました。どちらかというと食べ物を美味しく食べたり、生活空間で自分が心地よく癒されたりといった高度な、進化したかたちで嗅覚を使っています。
このように、動物と人間社会では嗅覚の役割が大きく異なります。そのため研究の視点としては、ヒトを対象とする嗅覚研究と、動物を対象とする嗅覚研究では大きく異なります。私たちはマウスやラットなどの動物、そしてカイコなど昆虫、そして植物についても匂いを感じるメカニズムを研究してきましたが、最近ではヒトの嗅覚も研究対象としています。
嗅覚研究を最初にスタートしたのは、私が1995年にアメリカのデューク大学から帰国したタイミングでした。当時、アメリカでは嗅覚の研究を行なっていなかったのですが、 私自身ずっと嗅覚に興味があったため、東大に助手として帰国した時に、教授の先生と一緒に嗅覚研究のプロジェクトを立ち上げたというのが始まりになります。その後、神戸大で一年助手をしたのち、1999年に東大助教授になった時から学生も取れるようになりました。その時期に研究対象をフェロモン研究にも拡げて、さらに2012年に科学技術振興機構(JST)のERATOプロジェクトをスタートした時に、ヒトの嗅覚研究を始めた、という流れになります。
基本的に私の興味は、「受容メカニズム」にあります。匂いやフェロモンがどのように感知され、それがどのように脳に伝わり、最終的なアウトプットである行動や生理的な変化、情動の変化が起こるか。この一連の流れについて研究してきました。
匂いに関して言えば、数十万種類もあると言われており、数百種類ある嗅覚受容体とのインタラクションがどのようにして情報処理されてアウトプットが引き起こされるか、その仕組みは究極の分子認識であり魅力的です。
フェロモンに関して言えば、もともとフェロモンという言葉は、昆虫の研究がきっかけで生まれたもので、60年ほど前から研究が飛躍的に進んできています。一方、哺乳類のフェロモンは、候補はあるものの、まだフェロモン自体がきちんと同定されていないものが多い状況です。
私が研究をスタートさせた時も、匂いのほうは嗅覚受容体の機能解析という段階から始まりましたが、フェロモンに関しては、昆虫は受容体レベル、マウスや哺乳類に関してはまず真のフェロモンを見つけることが第一の課題でした。
Q:既存研究とのアプローチの違いについて教えてください。
化学のバックグランドをもとに嗅覚研究を行なっている私のような研究者は、少数派です。
私自身、大学4年生の卒業実験では有機合成をやりました。その流れから、大学院留学先として選んだニューヨーク州立大学でも化学科を卒業しました。こういった経歴があるので、私がフェロモン研究をするには、まずフェロモンの化学構造を決定して、その受容体を見つけ、神経回路を明らかにして、それがどう行動に結びついているかを見極めるという、物質側からのアプローチを得意としています。
例えば、動物同士の化学コミュニケーションに関わる物質を明らかにすることが研究のメインテーマの一つになっています。現象を司る物質を同定する仕事は、いわゆる「もの取り」という領域で、職人芸的な経験と感を使う仕事だといえます。
多くの嗅覚研究者は、神経生理学か分子生物学専門です。嗅覚受容体遺伝子を最初に発見したのは、リチャード・アクセルとリンダ・バックという研究者でノーベル賞も受賞しているのですが、彼女たちの専門は分子生物学と免疫学でした。日本で嗅覚の研究をしていた坂野仁先生ももともとは免疫学者でした。
多数の情報を識別すると言う意味では、匂いと免疫は非常に似ています。そのため、 免疫学者が嗅覚に興味を持って入り込んでくるということがよくありました。さらにそこに遺伝学的な側面からアプローチする生物学者が入り込んできて、そこにさらに分子神経科学の人が入り込んできて・・・という形で、嗅覚研究は進んできました。
元々匂いやフェロモンは情報物質で、 化学シグナルと言えるものです。ですから、生物が生きていくための重要な化学物質という側面から、嗅覚研究に切り込みを入れていくことが重要です。ただ、生物学から化学へ専門を移すのはその逆より比較的難しいので、それが私たちの研究の独創性につながっています。単純に脳が感じる五感の一つとしてということだけでなく、一つ一つの化学シグナルを正確に識別区別して処理できる感覚として嗅覚を見るところが、私たちのオリジナリティな視点だといえます。
Q:実際の研究体制としてはどのようなものになりますか。
スタッフ体制としては、助教の先生と私の二人体制になります。そういう意味では他の研究室よりはスタッフが少ないと言えるかもしれません。ただ、5年前に、ERATOプロジェクトをスタートした時に、特任の教員を何人も雇用することができて、総勢40名ほどでいくつかのチームを作って研究ができました。ERATOは今年で終了して、来年度からまた20-30人程度の体制で研究していくことになります。
当研究室には、基本的な生化学、分子生物学、細胞生物学、神経科学、分析化学ができる設備は一通りのものが揃っています。「もの取り」のために、HPLCやGC-MS、またタンパク質を分析するLC-MSなどが設置されています。また細胞レベルの動態をみるカルシウムイメージング装置や、細胞に電極を当てて電気信号をとる電気生理セットもあります。また、マウスの行動を計測するために、 脳に電極を差し込んでマウスが自由に動いている状況で脳から活動を取る装置や、ウイルスを打ち込んでそのウイルスがどのように感染してどのように神経回路を伝わっていくのかを見るセットアップもあります。
このように分子レベルの生物有機化学的解析から受容体の機能解析、そして行動解析まで様々なレベルで実験ができる環境があります。このように多角的アプローチができるところが、私たちの研究のユニークなところで、たとえば神経科学者であれば神経科学的アプローチだけしかできないといったように、特定の分野に限られてしまうことが大半です。
嗅覚は先ほどもお話ししたように、匂い分子というケミストリーから始まって、それが受容されて、信号が脳神経回路に入り、行動というアウトプットとして表徴されるダイナミックな感覚です。これら一連の流れが複雑に関わってくるものですが、これら全てを把握できる研究者は限られています。世界的に見ると脳科学をやる上でのモデルシステムとして嗅覚にアプローチする人が多いようです。例えば、フェロモンを研究する場合、マウスの尿を使って研究することが多いのですが、確かにアウトプットとしてはフェロモン現象が起きるかもしれないけれど、マウスの尿の中にはいろんな物質が混ざっており、フェロモンが活性化する神経回路を正確に見ることはできません。こうした面からも、私たちのように物質を同定してケミストリーからアプローチしていくことによって初めて正確なフェロモン信号伝達経路が見えると考えています。
人間社会で香りを有効活用するために乗り越えるべきこと
Q:研究において、技術的な課題として感じていらっしゃる部分はありますか。
匂いやフェロモンを扱っていると、扱う量が極端に微量になるということがあります。そのため、現象を引き起こす匂いやフェロモン分子を同定するのに、現在の分析技術のスペックだと難しいときが多くあります。GC-MSはppbレベルの濃度までしか検出できません。しかし匂いによっては閾値がpptレベルのものが多いので、分析感度もそこまで高めなければ構造決定できないのです。つまり、分析装置の感度が追いついていないという技術的な制約があるといえます。これは技術的な壁だと言えますね。
Q:続いて産業的なあるいは社会的な課題として感じていらっしゃる部分はありますか。
香りを有効利用するには乗り越えなくてはいけない問題があります。大きく分けて三つあります。
一つ目は、香りはヴァーチャルに再現することができないということです。 例えば視覚であれば、物の質感までヴァーチャルに表現できます。それに対し、嗅覚の場合は、匂いなしでは匂いの感覚を作ることができません。
二つ目は、香りは人によって感じ方が大きく異なるということです。 ある人にとってはすごくいい匂いであっても、別の人にとっては嫌な臭いである、ということがよく起こります。最近は香りの害と書いて「香害」と呼ばれる言葉が出てきましたが、人それぞれの感じ方が違うことが原因です。
三つ目は、香りの効果に対するエビデンスが弱い、つまりそのメカニズムがよくわからないという問題です。例えばアロマセラピーは、その効果のメカニズムがよくわからないだけでなく、全員に効くとは限りません。だから医療にならないのです。本来、香りは五感の中でも有効利用のポテンシャルを秘めているものですし、積極的に活用したいと思っている企業も少なくありません。 しかしこれら三つの問題があるため、企業としてもうまく有効利用できていないのです。
以上は主にヒトの嗅覚の課題ですが、動物レベルでの産業利用でいえば、害獣を遠ざけたり、害虫が近づかないようにするということに応用できます。動物がフェロモンや匂いによって行動がどう制御されているかがわかれば、それを逆手に使って行動をコントールできます。例えば、マウスの繁殖を抑えたりすることが可能になります。
私たちの研究の学術的な意義としては、動物同士がどんな匂いでコミュニケーションしているか、その匂いの役割とそれが使われるようになった選択圧の進化的関係、それが嗅覚の世界の根本的な面白さになります。膨大な化学シグナルのなかで、動物は重要な匂いを抽出してピンポイントに情報を得て行動をします。彼らがどのようにしてこの能力を進化の過程で獲得したのか、嗅覚系の進化は早いので、基礎学術的な面白さがここにあるわけです。
いっぽう、人間社会での匂いの産業応用となると、同じ嗅覚と言っても動物と全く異なる問題が出てきます。
ヒトによって感じ方が違う原因の一つに、約400種類ある嗅覚受容体遺伝子に多型が多いということがあります。そのパターンと匂いの応答性の関係が分かるようになれば、ある匂いはこの人にとってはいいにおいで、別の人には心地よくない匂いになるとかがわかるようになります。すると、個人個人にテーラーメイド的に快い匂いを提供できるようになるかもしれません。
匂いに関しては、誤解されている面も多くあります。たとえば「臭い」ということ。臭いものを嗅いだら体に悪いとか、病気になるとか、まるで匂いそのものが悪いと言うイメージを持っているひとがいます。しかしそのイメージは改めるべきものです。例えば、大便のにおいは、後天的に「臭いものだ」と教え込まれることで臭いと感じるようになったものです。赤ちゃんは大便とバラを嗅がせても両方同じくらい興味を持って嗅ぎます。「臭い」の多くは後天的に与えられたイメージだといえます。
嗅覚を正しく理解するために、2017年から2018年にかけて、お台場の日本科学未来館で匂いに関する展示を半年間開催しました。匂いの仕組みを知ることを目的とした展示会だったのですが、毎日数百人のお客さんが訪れてくれてました。こういう活動を通して、匂いに関する誤解が少なくなるといいと思っています。
驚くべきことに、嗅覚を100%喪失してしまうと、その後5年以内に死亡する確率が他の疾病より高いというデータがあります。 嗅覚を喪失すると死亡率が上昇するということは、私たち人間が無意識のうちにいかに嗅覚からいい影響を受けているかを示しています。
人間社会での課題として、嗅覚を正確に理解していくことが必要だと思います。
Q:現在研究室の学生は何名いらっしゃいますか。
学部4年生と大学院生は修士、博士、そしてポスドク、技術委員といういろいろな立場と年齢層の人がいますが、学生は総勢20人弱です。匂いフェチ的に匂いに興味を持つ学生がいたり、匂いにはそれほどまで興味はないけど嗅覚システムに興味を持つ学生がいたり様々です。香りが好きな人は香りそのものについての研究をしますし、嗅覚メカニズムを解明したい学生は神経科学の手法を使うプロジェクトについたりします。
Q:この分野でいい仕事をしたいと志す学生に伝えたいことはありますか。
技術を開発したり、自分が今までやったことのないような技術を導入したりというように、新しいことにどんどん挑戦してほしいですね。やったことがないからと言って尻込みせずに、積極的に新しいことができる人でなければオリジナルの研究はできないと思います。
私がいつも学生に伝えているのは、サイエンスの世界において「それは無理です」という言葉は存在しない、ということです。無理と思うものを可能にするために人々は技術を開発してきたのです。もし「無理です」と言うようになったらそれは研究者を辞める時かなと思います。好奇心がくすぐられ、あるいは何かを知りたいと思ったときに「それは無理だな」と思うことを「できる」ようにしたいですよね。
また、学生には特定の技術や方法論にこだわらないことが大事と言っています。技術や方法論がありきで目的が設定されるわけではなく、課題を解決するために最善の技術を使うものです。そのためにはフットワークを軽くして、様々な技術と考え方を若いうちに身につけることが必要だと思います。嗅覚の研究で言えば、物質や細胞レベル、神経や行動レベルといったふうに、様々な側面から多角的なアプローチで現象を追うので、いろいろな技術を身につけることができます。そうすると、ベストな道を選択することができる論理的直感が養えると思います。
Q:香り活用の観点から、企業に期待することはありますか。
世の中的には、匂い、あるいは香りに対しての注目度は年々高まっています。先日もある高校の先生から連絡があり、学生の課外授業として香りをテーマに1年間研究をしてみたいため協力してほしい、という申し出がありました。匂いやフェロモンは身近なものなので、いろいろなアイデアで自由研究ができると思います。
企業で言うと飲食や食品関係、また香粧品関係の会社からの相談が多いです。化学産業界では防虫剤や害虫制御の開発が求められています。それ以外でも、リゾートやホテル産業、自動車産業、ゲーム開発、医療など、幅広い業種で、匂いの問題解決と匂いの有効利用が模索されています。私たちも貢献できればと思っています。
一方で、世間はあまりに「消臭、消臭」といいすぎるきらいがあります。匂いをなくそうという流れは、企業が意図的に作り出している面も否定できません。これほど匂いを気にするのは日本特有です。しかし、人間にとって嗅覚は必要不可欠なもの。あまり匂いを悪者にしすぎるのは控えて、香りのポジティブな有効利用、いかにしてサービスに持っていくかを考えてほしいですね。(了)
東原 和成
とうはら・かずしげ
東京大学大学院 農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室 教授
1989年、東京大学農学部農芸化学科卒業。1993年にニューヨーク州立大学Stony Brook校化学科博士課程修了(Glenn D. Prestwich教授, Ph.D. in Biological Chemistry)。1993年8月より、デューク大学医学部博士研究員(Robert J. Lefkowitz教授)を務め、1995年10月より東京大学医学部脳研究施設神経生化学部門助手となる。1998年から神戸大学バイオシグナル研究センター助手を経たのち、1999年より東京大学大学院 新領域創成科学研究科 先端生命科学専攻 助教授、2009年より現職。
2012年10月ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト研究総括兼任、2013年より中国浙江大学客座教授兼任。