生物の「聴覚」はさまざまな音から適切な情報を取り出し瞬時に判断する高度なシステムであるが、その聴覚の仕組みを解き明かすためにはどんな研究が有効であろうか。
その一つの研究アプローチとして、ショウジョウバエの聴覚系が哺乳類の聴覚系と類似することに着目し、人間の聴覚システムの理解につなげる試みを進めているのが、大学院理学研究科の上川内あづさ教授だ。
研究の対象としてショウジョウバエを選んだ経緯とその理由、研究の先にある人間の聴覚システムの理解へのゴールマップについて、上川内教授に話を伺った。
音を使ったコミュニケーションの基本を研究する
Q:まずは、研究の概要についてお話しください。
まず、私たちは必ずしも人間を理解したいと思って研究をしているわけではなく、自然界の仕組みを理解したいという観点から研究をしています。
ですからショウジョウバエを理解したいわけでもなくて、動物の聴覚の仕組みを知りたいということが基本的な方向性です。それは好奇心に基づいているわけです。
例えば自分がこうして人と話をして、相手が言っていることをちゃんと理解できて、「この人はこんなことが聞きたいのだろうな」とある程度想像して、お返しするわけです。そうして、耳で聞いた音を意味がある情報に自分なりに解釈して、相手に応えるというコミュニケーションの仕組みをそもそも知りたいなと思い研究をしています。
私は人間ですから私個人で考えると、「人間のコミュニケーションって何だろう」、ということが一番考えやすいです。人間という立場から、音を介したコミュニケーションが一番面白いというか、理解しやすいと思っています。そこから、「音を使ったコミュニケーションはどのようにして脳の中で情報が処理されているのか」、つまりコミュニケーションを担う音がどのように脳の中で理解されているのかを知りたいと思ったことが最初のクエスチョンでした。
この世に、雑音がない世界はありません。様々な音がある中で、私たちは特定の音だけを「これは聞かなければ」と抽出しているわけです。それは当たり前のようですが、すごく不思議なことです。
現在は人工知能もかなりよくできていて、話しかけたことをしっかりと聞き取ってくれますが、3人ぐらいで話しかけると混乱してしまいます。しかしこれが人間なら、3人から話しかけられても聞き取ることができるはずです。ですから、機械ではなかなか及ばない部分が人間の脳にあることがわかります。
さらに驚くことは、それが鳥とか虫とかそんな小さな生き物でもできてしまうということ。すごく不思議なわけです。ショウジョウバエの場合は求愛歌という羽音を使って求愛しますが、やはりこれも自然界の様々な音の中に混ざって発せられます。その求愛歌を聞いて、「これは自分の種の歌だ」とか、「これはそうじゃない」ということを判別するのです。こういった仕組みがショウジョウバエのような小さな虫にもあることは驚きですよね。
さて、ショウジョウバエには様々な種類がありますが、私たちが研究に使っているのはキイロショウジョウバエという、人が住んでいるところで見かけるような種類です。
その他にも山が好きなハエや、セーシェル島にしかいないものなど、世界中様々なところに散らばっています。
ハエのコミュニケーションは、人間のコミュニケーションをものすごくシンプルにした形であるといえます。脳は複雑ですから、なるべく問題をシンプルにして解かなければならないと思っています。脳が音を聞き分けてコミュニケーションをとっているメカニズムを知りたいなら、それを一番シンプルな形で行なっている生き物に注目するほうが、より早くゴールにたどり着けるだろうと考えたわけです。
そう考えたとき、様々な生き物がいる中でショウジョウバエなら実験室でも飼いやすいですし、多くの実験方法が確立しています。その上、求愛歌のような面白い行動もするため研究対象としてちょうどよく、またゴールにも早く近づけそうだという観点からこの研究を始めました。研究を始めたのが2002年ですので、もう15年以上はこの研究をしています。それでもまだ脳の入り口程度しか理解できていません。
Q:実際の研究手法としては、どんなやり方になるのでしょうか?
私たちは音を聴くための脳の仕組みが見たいので、録音してある求愛歌を流したり、人工的に似たような音をつくってしまうこともあります。
人工的につくったハエの求愛歌を聴かせて、それに対してハエがどのように応答するかをビデオで撮影します。
ショウジョウバエの求愛歌は、さほど複雑な音ではありません。だいたい200ヘルツくらいの低周波です。そのままの状態だと小さすぎて聞こえない音ですが、録音をしてアンプを通せば聞こえます。
音さえあれば反応はしますが、一人ぼっちだと反応もすぐに終わってしまいます。やはり相手のハエがいないとなかなか持続しないですね。ハエもそこまで馬鹿じゃないというか、求愛歌を聞いたからといって、求愛状態になるということではないみたいですね。ただ何か起こっているなということは感じるようで、求愛歌が流れてくると急に走り出したり、他にハエがいないかを探したりはしますね。
ショウジョウバエは近縁種間で音のリズムが違うため、リズムの速さを変えたり、育て方を変えるとそのリズムが違う音に対する反応も変わってきます。それによって応答がどう変わるのかを見たりします。
ショウジョウバエは遺伝子操作が簡単なので、それを利用し、特定の脳の細胞が活動しないようにしたり、あるいは人工的に活動させることも簡単にできるわけです。ですから、ある神経細胞の活動を止めてしまったら音に対する応答が変化するのではないかとか、リズムの好みが変わるのではないかなど、そういったアイデアを元にして少し脳の中を操作したハエの応答や行動を見たりもしています。
ハエは自分の歌、つまり特定のリズムが好きですが、なぜそのリズムが好きなのかということについては、実はほとんどわかっていません。人間の話し言葉にもリズムがありますし、会話であればどこで話を区切るかとか、間も大事になってきます。それらによって相手に伝わる情報が変わってきてしまうこともあります。そういった「音の時間的な成分」を脳がどのようにして理解しているのかということは、よくわかっていないのです。
ですからハエはリズムを聞き取っていて、もちろんそこには好きなリズムや嫌いなリズムがあるわけですが、その好き嫌いをどこで理解しているのかという脳の仕組みを今調べています。このようなことは人間の脳についてもいえることだと考えています。「愛している」という言葉も、伝える速さや間の取り方によって相手へ伝わる印象が全く違ってきます。そういった部分がハエを研究することで、より単純な形で見えるのではないかと考えています。
Q:現在の研究体制はどうなっていますか?
学生とともに、10人ぐらいで研究をしています。ハエに対して音の条件を変えて反応を見たり、脳の中の活動パターンを見る人もいますし、条件を変えてハエを育てたりもしています。
ハエは自分の種のリズムの歌を聴きながら育つと、それにすごく反応できるようになります。つまりチューンされていくといいますか、感度が上がっていくわけで、その仕組みを見ている人もいます。みんなそれぞれ自分の興味があることを対象にした研究をしています。
効率的に音の情報を処理する「設計原理」を解き明かす
Q:現在の研究体制に至るまでの経緯についてお聞かせください。
最初は愛知県の岡崎市の基礎生物学研究所というところでこの研究を始めました。ショウジョウバエの耳がどこにあるかはわかっていましたが、そこからどのようにして脳に情報が伝わるのかがほとんどわかっていなかったため、まずは一つ一つ、耳の中の感覚細胞から脳にどのように情報が伝わるのかを見つけていって、その地図をつくることから始めました。
それを3年くらい行なって、その間に東大に移って研究を始めました。その地図がだいたいできてきたのが、2005年頃のことですね。地図がわかってからは、一つ一つの道がどんな情報を伝えているのかを知りたいと考えはじめました。その研究をするのに最適な場所がドイツのケルン大学で、一つ一つの細胞がどのように音に反応するかということを一緒に調べようと言ってくださる先生がおられたので、ケルン大学に移りました。
ケルン大学で3年間、音の情報を脳に伝える経路がそれぞれどのように働いているのかを研究しました。3年くらい経った時にそれがだいたいわかってきたので、日本に帰国して東京薬科大学という八王子にある大学で助教という職を得ました。それまではポスドクという立場で、誰か先生についてコツコツと自分のペースで研究を進めるというスタイルでしたが、大学で職を得てからは学生さんと一緒に研究ができるということになりまして、そこでもやり方が変わったというのはありますね。
もちろん今もそうです。学生さんのアイデアもなかなか面白いので、それを聞きながら「自分はこう思っていたけれど、実はこの考え方も面白いのではないか」というように、日本に帰ってきてからは広がりも出てきたかなと思っています。
Q:ショウジョウバエを使った研究は、世界でも珍しいのではないでしょうか。
聴覚の研究でショウジョウバエを使うようなケースは珍しいと思います。最近は世界でもいくつかのグループが研究を始めています。ただ日本の中では他にはいないかもしれませんね。
ショウジョウバエ以外ですと、コウモリや鳥などが聴覚の研究に使われています。鳥はさえずりがあるので、音を使ったコミュニケーションという観点からよく使われています。あとはネズミや、虫ならコオロギも使われていますね。コオロギってわりと頑丈なので、実験がしやすいです。研究室でもずっと飼っておけるので、それこそすごく昔から使われています。
Q:高齢者でも音を聞き取りやすくするための技術など、人間社会への応用についてなにかアイデアはありますか?
人ということなら、今でもいくつかの技術がありますよね。補聴器もそうですが、人工的に脳に機械を埋め込むという方法もあります。高次の領域でされている情報処理なので、やはり音の高さを聞き分けるというよりはもう少し複雑な情報処理が必要です。ですから、音のパターンを聞き分けるような少し難しい情報処理を、昆虫がやっているシンプルな回路で実装できるのであれば、それを使って人のパターンの聞き分けをしている部分に障害を負ってしまった場合でも、人工的にそこを補完するような回路をつくれる可能性はあるのではないかと考えています。
ただ哺乳類の音の聞き分けをそのまま真似ようとすると、機械が大きくなってしまうかもしれません。ショウジョウバエが行なっているような、小さい脳に入っている少数のニューロンで実現できるのであれば、おそらくそれが一番小さい単位での音の聞き分けの素子みたいなものをつくる土台になるのではないかと思います。
Q:研究室にはどんな学生が多いですか?
学生は毎年2~3人入ってきています。みなさんやはり脳の不思議さに魅力を感じて、脳は何をしているのかと疑問を持って、その謎が少しでも解けるのであればと入ってこられます。生命理学の中でここの研究室は脳の全体の研究をしています。脳がどのように複雑な行動をコントロールしているのかに興味を持って、入ってくる人が多いですね。
学位を取ってプロの研究者として世界に出ていく人もいれば、修士までしっかり研究をして、そこで磨いた論理性だとか科学的な考え方を身につけて、一般企業に就職される方もいます。入ってくる学生さんの人数は、その年によって波がありますね。
Q:社会への応用など、企業に対して期待できそうなことはありますか?
音を意味に分解する「分析手法」が、これからはさらに発達していく必要があると思っています。会話のような「曖昧な情報」でも伝わるわけです。そこにはやはり想像だとか今まで話してきた履歴を含めて判断している部分があると思います。そういった情報処理がおそらくハエの脳でも起こっていて、「さっきはこのメスに振られたから、ちょっとやめとこう」など、状況に応じて同じ音でも理解の仕方を変えることがハエの脳でできれば、状況に応じた解釈ができるようなロボットもつくれるかもしれません。
もちろんハエができる状況判断というものはある意味でたかが知れているものですが、それをシンプルな脳で、少ない素子で実行できることは、やはり工学的にも非常に応用価値があるのではないかと考えています。
Q:今後目指していくゴールについて、考えていらっしゃることはありますか?
現在では脳の入り口から脳に入って、その次の段階くらいまではわかってきていますが、さらにもう少し奥がありそうな感じがしています。奥に行けば行くほど情報が様々な脳の領域に分散していくことがわかったので、その分散していったものが最終的に一個の音の風景としてどうまとまるのかというところが、非常に難しいなと思っています。
おおまかにこうだろう、と予想していることはありますが、本当のところはまだわからないのが現状です。分岐して、様々なところで情報が処理されているようです。それぞれが何をしているのかを一つずつ見ていくということが次のステップで、それは脳の奥のほうで起こることですから、さすがに小さいハエといえども、結構複雑で解くのが簡単ではないなと思っているところです。
ショウジョウバエの脳はいくつかの部屋に分かれています。その部屋については少し違いますが、基本的には音の感覚刺激の情報が脳の中の領域に入って、そこでいくつかの情報処理をしたら次の段階の領域に情報を伝えていくという形です。モジュール、モジュールで徐々に情報を処理していく、大きな構造は人間と同じです。
ただ、大脳があるかとか小脳があるかという部分には違いがあります。やはり脳としては別々に進化してきたものだと考えています。ただ、音から意味を抽出するには、虫だろうと哺乳類だろうとある程度同じような情報処理をしなければなりません。そういったところで、ある程度情報処理のやり方に制約がかかっていて、似たような仕組みがつくられてきたという可能性はあると思います。
例えば音の高さを聞き分けることは、虫でも人でも基本的には同じような仕組みです。耳のニューロンで高い音の担当、低い音の担当、真ん中くらいの音の担当というように分担をして、それぞれその音の高さごとに脳の中枢に情報を伝えていきます。こういった仕組みはハエでも人でも同じで、それはやはり動物にとって音の高さは一番にわけなくてはならない情報なので、そのように動物にとって何が大事なのかを考えると、脳の仕組みは必然的に似てきてしまっているのではないかと考えています。
それを突き詰めて考えると、効率的に音の情報を処理するための最適な設計原理のようなものが見えてくるのではないかと思います。それを見るためには、逆にハエと人を比較して、似ている部分を抽出する。それが案外、良い戦略なのではないかと考えています。(了)
上川内あづさ
かみこうち・あづさ
名古屋大学大学院理学研究科 教授
2002年東京大学大学院・理学系研究科、東京大学大学院・薬学系研究科機能薬学専攻 博士課程 修了。博士(薬学)。
基礎生物学研究所、東京大学・分子細胞生物学研究所を経て、2005年より3年間ドイツ・ケルン大学にて留学。2008年より東京薬科大学 助教を経て、2011年より現職。
2010年から2014年まで、JSTさきがけ「脳情報の解読と制御」研究者 兼任。2016年より、Janelia Research Campus(米国)客員研究員。